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2007年5月31日 (木)

国民不在の裁判員制度

裁判員のような義務を強制的に国民に負わせるのは憲法違反ではないでしょうかね。どういう意図でこういう制度を導入したのかわけがわかりません。万が一自分にお鉢が回ってきたら非常に困ります。拒んだ場合に罰則があるのかどうかわかりませんが、罰せられてもいいから遠慮したいです。

ちなみにアメリカの陪審制は被告人の人権に配慮されていて、

1.弁護側・検察側が提出した証拠に基づいて有罪か無罪かを決める
2.法律の解釈や刑の重さは判事が決める
3.被告人は陪審制を拒否できる
4.自ら有罪を認める場合は陪審にはかからない

だそうです。つまり、アメリカでは陪審員は有罪か無罪かを決めるだけで、被告人が無罪を主張していて(被告人の権利として)要求するのでなければ陪審制は行われないようです。

ところが日本の裁判員制度はこうした制約がなくもともと被告人の人権を守るための制度ではないようです。

すでに法律ができていて2009年の開始に向けて着々と裁判員制度の準備が進められていますが、国民に対して納得のいく説明がなく、理解も支持もされないままにいつのまにか勝手に一人歩きを始めているといった感じです。果たしてうまくいくのでしょうかね。

裁判員制度のQ&A → http://www.moj.go.jp/SAIBANIN/info/qa/qa.html

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2007年5月19日 (土)

詐欺のライセンス・BIG売り上げ47億円突破

 繰越金の積み上げで史上最高の最大当選金(6億円)が複数本出る可能性が生まれ、一時は販売システム不調も発生したスポーツ振興くじ(サッカーくじ、愛称toto)の「BIG(ビッグ)」は販売締め切り前日の18日、午後7時時点で売り上げが約47億5000万円に達した。18日だけの1日の売り上げでも史上最高となる20億円を突破、全国の特約店には購入希望者の長蛇の列ができた。(毎日新聞)

なるほど新宿のサッカーくじ売場に長い行列が出来ていました。すぐそばに臨時の宝くじ売場も進出していて、「ついでに宝くじもどうですか」ということのようでした。商魂逞しいですね。でも、宝くじ売場には行列はありませんでした。

「夢を買え」とばかりにほとんど当たる可能性のない紙切れを売りつけるサッカーくじや宝くじは詐欺ではないかと思うのですが、マスコミがなぜ批判しないのか不思議です(批判するどころかむしろ煽っている)。

今、株式市場における新興銘柄は、「需給不安と事業モデルに対する不信感と会計不信がない交ぜになった状態」(三菱UFJ証券・白木豊)ということでまさにどしゃぶり状態です。リターンがなくリスクだけを負わされるインチキ市場から資金が逃げ出すのもやむを得ないといったところです。

しかし、同じ夢を買う(=金をドブに捨てる)ならサッカーくじに貢よりもあやしげな新興銘柄に貢いだほうがまだましだと思います。少なくとも僥倖を得る確率はサッカーくじよりもはるかに高いです。それに運がよければ(?)「ライブドア事件」のように損害賠償請求もできます。サッカーくじに外れた人も「騙された」と称して損害賠償請求をしてみたらどうでいしょうかね。

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2007年5月18日 (金)

がんばれバナナ!マンゴーに負けるな

その昔、バナナといえば高級果物でした。「子どもが食べるとおなかをこわす」とよくいわれたものです。しきりに食べたがる子どもを黙らせるために、「バナナは子どもには毒」ということになっていたのだと思います。素直に「高いからダメ」といえば子どもだって納得したのにね(しないか)。でも、病気で寝ていたりするとおなかをこわすはずのバナナを食べさせてもらえたような気がします。

その後、保存技術が進歩したのか為替レートの影響か、詳しい事情はよくわかりませんがいつのまにかバナナといえば安い果物の代表みたいになってしまいました。最近は宮崎県の東国原知事のせいで高級果物といえばマンゴーがブームの兆しです。でも、バナナにも頑張ってもらいたいです。

安いからといってバナナを馬鹿にしてはいけません。おいしく食べる工夫をしましょう。暑い夏にピッタリなのはシャーベット風冷凍バナナです。作り方は簡単です。

1.バナナの皮をむいて
2.サランラップ(クレラップでもよい)で包み
3.冷凍庫に入れる

これで出来上がりです。賞味期限はほとんど気にしなくていいのでまとめて作っておけます。見た目を気にしなければけっこうおいしいです。一個一万円もするようなマンゴーよりも、一万円あればひと夏分の冷凍用バナナを買ってもお釣りがきます。コストパフォーマンスを考えましょう。1万円あれば、1本50円で計算しても200本買えます。

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2007年5月14日 (月)

「昭和33年」(布施克彦・ちくま新書)

この本の主張を乱暴に要約すると、

政治の泥仕合は今に始まったことではないし、昔の下流社会(バタヤ部落)を考えれば今の「格差社会」なんてへそが茶をわかす。昔を美化するのもいい加減にしませんか?

こんなところだと思います。

たとえば、教育の荒廃といった問題について、布施克彦は自らの体験を次のように述べています。

当時の教師がみんなしっかりしていたというのは嘘だ。わたしの記憶でも、ダメな教師、ヘンな教師はかなりいた。みんなでからかったら、立ち往生してしまう教師がいた。生徒が教師の話を聞かず、事実上崩壊している授業もあった。生徒を置き去りにして、先生同士が駆け落ちする事件も起きた。

えこひいきの激しい担任教師のクラスで、えこひいきされない生徒は惨めだった。ガキ大将の命令は絶対で、サダム・フセイン圧政下のイラク状態の弱い子供たちは、常にビクビク、オドオドしていた。下校途中の街角には、頭のおかしいオヤジとか、他校のいじめっこ上級生が待ち伏せしていた。

「あのころの子供たちは今より幸せだったか」という問題に、この著者は遠慮がちに「簡単に答えは出ない」としています。しかし、昔と今とどちらがいいかを直接子供たちに選ばせれば今がいいというに決まっています。タイムマシーンで昭和33年の子どもが現代にやってきたとしたら、「夢のようだ」と泣いて喜ぶのではないでしょうか。

この本に掲載されている「一般刑法犯罪発生件数」や「道路交通事故死亡者数」の比較表を眺めるだけでも、「昔はよかった症候群」や「未来心配性」は相当眉唾であることがわかります。

一般刑法犯罪発生件数
                        昭和33年    平成16年
件数(単位:千件)              1513        380
人口10万人当り                16.4        3

道路交通事故死亡者数
                        昭和33年    平成16年
死亡者数                    8248       7358
自動車一万台当り               35.4        0.8
人口10万人当り                  9          5.8

注)「交通事故死亡者数の減少は医療技術の進歩による」という説もある。

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2007年5月12日 (土)

1億円裏献金 村岡元官房長官に逆転有罪判決

事件は、自民党旧橋本派の政治団体「平成研究会」に、日本歯科医師連盟から1億円が提供されたというものだ。故橋本龍太郎元首相、野中広務・元自民党幹事長、青木幹雄・同党参院議員会長が、日歯連幹部との会食の席で1億円の小切手を受け取り、村岡被告の指示で政治資金収支報告書には記載しないことを決めたとされる。
 1・2審ともに最大の争点は、平成研の元会計責任者の証言の信用性だった。1審は「証言は不自然、不合理な点があり、到底信用できない」との判断を下した。ところが、2審は「元会計責任者の供述には極めて高度の信用性が認められ、1審判決は是認できない」とまで言い切っている。
 村岡被告側は判決を不服として、上告する方針だけに、最高裁がどのように判断するか注目したい。

            http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/opinion/51253

裁判官の判断によって白にも黒にもなるということは無罪ではないでしょうか。一審が有罪で二審が無罪という逆転判決ならあっても不思議はありませんが、新証拠も新事実もないのに供述の信憑性をどう判断するかだけで一審が無罪で二審が有罪というのは素人が考えてもおかしいです。

 「一人の罪なき者が苦しむより10人の罪人が免れたほうがよい」

日本の裁判は「疑わしきは罰せず」という大原則が守られてないと思います(「疑わしきは検察の利益へ」という裁判がまかり通っている)。にもかかわらず、一審の裁判官が検察の意に反して無罪の判決を出したということは、検察があまりにも筋の通らないメチャクチャな起訴をしたという動かぬ証拠だと思います。

いろいろネットで調べていて、「日米の刑事事件取り扱いの相違」という面白い比較対照表を見つけました(http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/nitibeikeijijikenn.htm)。アメリカの刑事裁判では検察に上訴権はないらしいです。

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2007年5月 8日 (火)

「めぞん一刻」・1980年代のワンダーランド

貧乏で女にはモテないし勉強もできない、生きるのが下手で努力しても報われず気が弱くて善良なだけが取り柄・・・そんな惨めだった若いころを思い出したかったら、「めぞん一刻」を読みましょう。美化された(つまり多少モテる)昔の自分にめぐり逢えます。

1980年代、「めぞん一刻」が「ビッグコミックスピリッツ」に連載されていたころ、昭和13年生まれの平井和正は高校3年生の息子がテーブルの上に置き忘れていった「めぞん一刻」の単行本をたまたま読んだそうです。そしてそのときの衝撃を次のように語っています。

 私は長い間、熱情というものの激しさ鋭さをすっかり忘れさっていたのである。
 こればかりは青春の一時期に限られたもので、一度過ぎ去ってしまえば、いかに努力しようと大金を積もうと、再び追体験できるものではないと諦めていただけに、夢ではないかと幾度も己れの正気を疑った。
 まぎれもなく青春の狂い咲きという正真正銘の奇蹟が生じていたのだ。

                            「語りつくせ熱愛時代」より

「めぞん一刻」の読者(特にたまたま読んでしまった年長の読者)のなかには、「世にも不思議な物語」に、忘れかけていた遠い日の熱情を思い出して、その後の人生が変わってしまった人がいたかもしれません。実際そういうことが起きても不思議はないくらいこのマンガは面白かったです。わたしなんぞは流し読みするのがもったいなくて、一コマ一コマくいいるようにして読んだものです。行間が豊かで読めば読むほど味がありました。

さて、この「めぞん一刻」ですが、5月12日(土)にテレビ朝日で実写ドラマとして放送されるようです。実写であのマンガの面白さを表現するのはほとんど不可能ではないかと思いますが、どこまで原作の魅力に迫れるか楽しみです。

詳しくは →  http://www.tv-asahi.co.jp/ikkokukan/

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2007年5月 1日 (火)

「昭和史の教訓」(保坂正康・朝日新書)

昭和10年代の歴史の実相を学ぶことを啓蒙した本です。この本の中で、保坂正康は昭和10年代を「四つの枠組みで囲い込まれた時代」と規定しています。その四つというのは次の通りです。

1.国定教科書による国家統制 → 国家意思による教育空間の占拠
2.情報発信の一元化 → 言論の封殺
3.暴力装置の発動 → 自主規制の強要
4.弾圧立法の徹底化 → 治安維持法の拡大解釈

昭和10年代というのは、共産主義者に限らず自由主義者だろうとクリスチャンだろうと、国策(つまり戦争)に反対したり、軍部を批判したりする者は、「非国民」として徹底的に排除、弾圧する時代だったようです。

今の日本には治安維持法はないし、原則として拷問もありません。しかし、「情報発信の一元化」ということでは、当局がやってること(またはやりたいと思っていること)は今も昔もほとんどかわらないのではないかと思います。この「情報発信の一元化」について、保坂正康は次のように述べています。

私はこの時代に「表現の自由」がなかったと分析するだけでは誤りだと思っている。それよりも情報の発信が一元化され、ジャーナリストが自由に取材を行えないというところに問題があると思う。現実には、情報局が情報の発信を一元化していき、それがそのまま記事にされているかどうかを、内務省の検閲課が検閲するという状態がつづいていくことになった。
 昭和十年代の言論は、政府の国民への示達という枠内で許容されていたのであり、政府の宣伝要員といった役割を果たしていたと断言していい。

あの太平洋戦争について、「マスコミも戦争を煽った」とか、「国民も戦争に賛成していた」などという論調をよくみかけますが、当り前ですね。賛成以外の選択肢は当局によって許されなかったのですから。

蛇足になりますが、このまじめな本を読んでいて不謹慎ながら笑ってしまったのは、「生死を恐れるな、生きて虜囚の辱めを受けず」と教えた「戦陣訓」についてです。「献身奉公の精神」を強調して、「生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし」などと末端の兵士には言いたい放題のことを言っておいて、「指導部にいた軍人たちのなかには虜囚の辱めを受けるどころか、敗戦後はGHQにすり寄り、その戦史部に身を置き、食うや食わずにいる日本人の生活のなかで並外れた優雅な生活をすごした中堅幕僚たちもいた」そうです。

正直者は馬鹿をみる・・・そんなもんだよ人生は。 ← これ、庶民の生活思想です。

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