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2007年11月17日 (土)

下村湖人の「次郎物語」を読む・その2

「次郎物語」は第三部あたりからちょっと説教じみた能書が多くなってきます。事実だけを書いて解釈は読者にまかせればいいのに著者が事実の解説までするようになります。著者が力めば力むほど鬱陶しくなってきます。途中で挫折してしまった人も多かったのではないでしょうか?

戦後に書かれた第四部以降は社会小説的色彩が強くなってきます。第五部になると、次郎の心理描写に覆いかぶさるようにして宗教小説的あるいは思想小説的要素が加わってきます。いくつもの課題をかかえたまま構想が破綻しているといえなくもないですが、それでも気迫で強引に書ききってしまったという感じです。発表当時、第五部がどのように評価されていたか不明ですが、今日的感覚で読むとカルト集団の黎明期を描写しているかのような印象を受けます。

下村湖人は1931年に台北高等学校長を辞任した後、1933年に同郷の社会教育家・田澤義鋪(1885年~1944年)が開設した大日本青年団講習所の所長に就任しています。「次郎物語 第五部」に出てくる友愛塾はこの大日本青年団講習所がそのモデルになっていると考えられます。そして友愛塾を主宰した朝倉先生は下村湖人がモデルで、友愛塾の設立に尽力した田沼理事長は田澤義鋪がモデルです。このあたりはほとんど実録に近いようです。

「次郎物語」は、「第六部 戦争末期の次郎」、「第七部 終戦後数年たってからの次郎」が予定されていましたが、第5部までの未完で終わってしまいました。

戦後の次郎物語の執筆をめぐるあゆみは以下の通りです。

1948(昭和23) 個人雑誌「新風土]創刊、次郎物語第四部連載。
1949(昭和24)「次郎物語」第四部出版。
1953(昭和28)「次郎物語」第五部,宗教雑誌「大法輪」に連載。
1954(昭和29)「次郎物語」第五部出版。田澤義鋪の伝記「この人を見よ」脱稿。
1955(昭和30) 4月20日老衰のため死去。享年70歳。

注目したいのは、第五部が完結した後、死期の迫った下村湖人が田澤義鋪の伝記を脱稿していることです。おそらく、「次郎物語」の第六部と第七部では田澤義鋪の生きざまを次郎に投影したかったのではないかと推測されます。死の前年に脱稿した田澤義鋪の伝記は、未完に終わってしまった「次郎物語」の最終章だったといえるかもしれません。

社会教育家・田澤義鋪は社会教育の分野では相当な功績を残した人らしいです。なにしろ青年団運動の功績が認められて貴族院議員(勅撰議員)にまでなっています。「青年団の父」と称され、「青壮年指導の理論と実践の上で田澤義鋪を乗り越えたものはいない」とまで言われたそうです。非合法の左翼運動とは一線を画していたようですが、イメージとしては、白土三平の代表作・「カムイ伝・第一部」に出てくる正助みたいな人だったのではないかという気がします。

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