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2007年12月26日 (水)

伊藤左千夫の「野菊の墓」を読む

「野菊の墓」は15歳の政夫と2つ年上の民子の悲恋物語です。発表されたのは1906年(明治39年)ですが、様式化された古色蒼然とした純愛小説です。

   今さら「野菊の墓」でもあるまい

とバカにしている人は、騙されたと思って読んでみるといいです。短編なのですぐに読めます。様式美の極地というか、その感動の大きさに圧倒されると思います。

昔は初デートの前日に「野菊の墓」を読んで滂沱の涙を流しておくと、デート中にいいことがあるといわれていたものです。心が洗われて表情からぎこちなさ(さもしさ?)が消えるという効果があったのかもしれません。

ちなみに、12月26日現在の「DS文学全集」の総合ランキングでは、「野菊の墓」が堂々の第一位です。

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2007年12月22日 (土)

夏目漱石の「吾輩は猫である」を読む

「DS文学全集」で夏目漱石の「吾輩は猫である」が当たってしまいました。36作目です。タイトルは知らない人がいないくらい有名ですが、実際に最後まで読んだという人がどれくらいいるのかは不明です。なにしろ長編です。そして、大きな声では言えませんがあまり面白くありません。部分的に面白いところもありますが、全体的に冗漫で読むのが苦痛に感じられるところが多かったです。

それにしても実業家(=高額所得者)や無学の人間(=生活思想)をあざ笑うことのどこがユーモアなんでしょうかね。ひとの身体的欠点を笑いのネタにする場面も頻出します。読んでいて不快です。学識を鼻にかけて一般大衆を蔑んでいる人が読むと面白いのかもしれませんが、学識があるということはそんなに立派なことなんでしょうかね。金持ちが貧乏人を馬鹿にするのも、有識者が無学の人間を馬鹿にするのも、目くそ鼻くそでたいして変わらないと思うのですがね。

世の中の子どもをいじめっ子といじめられっ子に大別したとします。いじめっ子が「吾輩は猫である」を読めば共感して面白いと感じるかもしれません。しかし、いじめられっ子が読んだら悲しくて泣きたくなってくるのではないでしょうか。とにかく「いじめのススメ」のような内容が延々と続いて、挙句の果てには「自殺のススメ」です。

   吾輩は猫である。名前はまだ無い。

この小説はこの一行だけを読んでやめておくのが無難です。感謝の気持も謙虚さもなく学識を鼻にかけた傲慢と非常識が悪臭を放っています。残念ながら私にはこの「名作」のどこが面白いのかさっぱり理解できませんでした。

「吾輩は猫である」に唯一救いがあるとすれば、苦沙弥の奥さんと三人の子どもたちです。苦沙弥の奥さんはとても魅力的でいい人です。癇癪オヤジに肩透かしを喰わせる術も心得ています。三人の子どもたちも無邪気でかわいいです。

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2007年12月20日 (木)

押川春波の「海底軍艦」を読む

「海底軍艦」は押川春波が学生の時に書いた波乱万丈のSF冒険小説です。娯楽大作で大変面白いです。宝くじに当たるような奇跡的偶然が次から次へと起きます。随所に見られる奇想天外な発想にも妙なリアリティがあります。マンガでもこれだけ面白い作品はめったにないかもしれません。

「海底軍艦」という物語は、これ以上はできないというくらい日本の帝国海軍を美化しています。帝国軍人はすべて人格者です。当時の少年はこういう物語に熱狂して軍国少年になっていったのかと思うと、軍国主義のプロパガンダ小説といった側面もあったのかもしれません。でも、当時(1900年)の時代背景を考えれば已むをえないところもあります。

スポーツの国際試合で自国のチームを応援する国民にナショナリストの幻影を見て不快感を感じるような極端な反戦平和主義者でなければ、「海底軍艦」の軍国主義的な要素は許容の範囲内だと思います。「戦争を賛美する物語などけしからん」ということで切り捨ててしまうと、せっかくの面白いSF冒険小説が埋もれてしまいます。物語は物語として、現実は現実として割り切ってしまう読者の立場というのがあってもいいと思います。

 「蟹工船」VS「海底軍艦」

面白さの質は違いますが、両作品とも読んで損のない傑作だと思います。

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2007年12月16日 (日)

近松秋江の「狂乱」を読む

この小説は冷めきった女と未練がましい男の虚しい会話からスタートします。読者は読み始めてすぐに「もう終わっている」と気づきます。

女が明らかに嘘とわかる嘘をつきはじめたら、男は別れの時が来たことを悟らなくてはいけません。すぐに諦めるのは無理だとしても普通は時の流れが「解決」してくれる(諦めさせてくれる)ものです。しかし、時が流れても解決しなかったらどうなるでしょうか?

近松秋江の「狂乱」という小説は、もう振り返ってはくれなくなってしまった女(芸妓)を諦めきれずに執拗に追い続ける愛欲に溺れた男の物語です。何度も示される拒絶のサインも男には通用しません。男の疑念はかえって女に対する欲情を燃え上がらせます。女が姿を隠して会えなくなっても、男はあくまでも女を追い続けます。

男は、「なぜこの女は真実の心を明かさないのであろうか」と考えます。しかし、「真実の心」はすでに明かされています。男がそれを認めようとしないだけです。

このまま進めば結末は自殺か無理心中ということになりますが、その一歩手前のところで小説は終わっています。作中の主人公が自殺したのにそれを書いた作者が生きているというのは、当時(1922年)の自然主義文学の理論(小説において事実こそが最も価値があるとする倒錯した理論)からは許されなかったのかもしれません。

近松秋江の「狂乱」は恥部をさらけ出して素っ裸で往来を歩いているような小説です。文学史的にはどうあれ、今さら読んでも・・・という気はします。この小説に実利(教育的価値)を求めるとすれば、自分を客観的に見つめるということで、ストーカー癖のある人にはおススメかもしれません(一途な想いに感動して主人公に共感してしまったら逆効果か?)。

「狂乱」は「黒髪」の続編だそうですが、「黒髪」はまだ読んでいません。続編のほうを先に読んでしまいました。

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2007年12月14日 (金)

幸田露伴の「五重塔」を読む

このところ精力的に「DS文学全集」を読んでいます。「おススメ」にしたがってランダムに一作一作気合を入れて読んでいます。子供のころあまり本を読まなかったのでほとんど読んだことのない作品ばかりですがけっこう面白いです。個人的な隠れた名作に遭遇することもしばしばです。

すでに3分の1を読破しましたが、26作目に読んだのが幸田露伴の「五重塔」でした。タイトルは知っていても実際に読んだことのある人はほとんどいないと思われる明治20年代の作品です。日本の近代文学に夏目漱石が登場する以前は紅露時代と呼ばれていて、尾崎紅葉と幸田露伴の黄金時代だったそうです。その紅露時代の一翼を担った幸田露伴の代表作が「五重塔」です。

この小説は、いわゆる芸術至上主義がテーマになっていて、天才肌の大工職人のっそり十兵衛が谷中感応寺の五重塔建立という偉業に職人魂を捧げた物語です。五重塔が完成して落成式の日取りも決まったその夜、未曾有の大暴風雨がやってくるというドラマチックな筋書きになっています。

十兵衛は大工の腕は確かなのですが、処世の知恵が不足していて、同じ大工仲間からは「のっそり」というあだ名をつけられて馬鹿にされていました。現代的な感覚からすると、この十兵衛というキャラクターは嫌な奴だという印象を受けると思います。協調性がなく頑固でひとりよがりです。周囲の人たちが理非をわきまえた心優しい善人ばかりなため、十兵衛のわがままだけが突出して目立ちます。すでに内定していた人事を上人様に直談判してひっくり返したり、恩義のある親方の親切を撥ねつけたり、礼節もマナーもない傍若無人の振る舞いに不快感さえ感じます。この小説を素直に感動物語として読むことができる現代の読者は少ないのではないでしょうか。今どきの物語であれば、読者が十兵衛に同情したくなるようなそれなりの悪役とか敵役とかというのが出てくるものです。しかし、「五重塔」にはそういった悪人がいっさい登場しません(悪人を強いてあげれるとすればそれは主人公の十兵衛です)。明治時代の読者がのっそり十兵衛の生き様をどう受け止めていたのか・・・謎です。

芸術至上主義というのは時代を超えた永遠のテーマだと思いますが、「芸術至上主義」をどういう物語として提示するかは時代によって大きく違っているようです。同じ芸術至上主義をテーマにした小説でも幸田露伴の「五重塔」(明治24年)と芥川龍之介の「地獄変」(大正7年)とでは物語の結末が天と地ほども違っています。

岩波文庫版の「五重塔」の解説で文芸評論家の桶谷秀昭は次のように述べています。

日本の近代小説は、「五重塔」において露伴が創造した人間性の極限をめざす人間像をつくらなかった。人間の崇高な理想の動機に卑小なエゴイズムを摘出する分析力に冴えは示したが、卑小な衝動と崇高な理想の落差に架橋する造型方法を見いだすことはできなかったのである。

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2007年12月 4日 (火)

太宰治の「走れメロス」を読む

昭和12年のことです。太宰治が熱海の旅館にこもって小説を書いていたところ、滞在が長引いて宿代が払えずに身動きが取れなくなってしまいました。そこで盟友の檀一雄が東京からお金を持って助けに行きました。ところがせっかく持ってきてくれたお金を宿代の支払いにあてずに檀一雄とふたりで飲んでしまいました。旅館の宿代をためたまま連日酒と女のハシゴを繰り返しているうちに居酒屋や遊女屋のツケもたまってきました。とうとうふたりとも身動きがとれなくなってしまいました。

そこで、お金の工面をするために、檀一雄を熱海の旅館に残して、太宰治だけが東京へ帰ることになりました。檀一雄は人質です。「すぐに戻る」という約束を信じて檀一雄は旅館で無為の日々を過ごしていました。ところが、4日たっても5日たっても何の音沙汰もありません。檀一雄は旅館に置き去りにされたのでした。

事態がどのように収拾したかは「小説 太宰治」(檀一雄・岩波現代文庫)に詳しいです。日頃温厚な檀一雄もこのときばかりはさすがに激怒したようです。それでもやはり檀一雄は善意の人でした。「走れメロス」について次のような感想を述べています。

私は後日、「走れメロス」という太宰の傑れた作品を読んで、おそらく私達の熱海行が、少なくともその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた。あれを読むたびに、文学に携わるはしくれの身の幸福を思うわけである。憤怒も、悔恨も、汚辱も清められ、軟らかい香気がふわりと私の醜い心の周辺を被覆するならわしだ。
「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」
と、太宰の声が、低く私の耳にいつまでも響いてくる。

「走れメロス」を読んで感動した小学生が、こんな素晴らしい感動物語を書く人はどんな立派な人だったのだろうと思って太宰治の評伝を読んだとします。実際の太宰治はグータラで放蕩無頼のダメ男でした。これを知ったらせっかく「走れメロス」に感動した小学生もがっかりするのではないでしょうか。

「DS文学全集」にはリアルタイムで更新されているランキングというのがあります。12月4日22時現在のナンバーワンはこの「走れメロス」でした。ベスト10は以下の通りです。

 1.走れメロス・太宰治
 2.坊ちゃん・夏目漱石
 3.花のき村と盗人たち・新美南吉
 4.野菊の墓・伊藤左千夫
 5.吾輩は猫である・夏目漱石
 6.杜子春・芥川龍之介
 7.恩讐の彼方に・菊池寛
 8.こころ・夏目漱石
 9.セロ弾きのゴーシュ・宮沢賢治
10.玉藻の前・岡本綺堂

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2007年12月 3日 (月)

夢野久作の「少女地獄」を読む

夢野久作の「少女地獄」は独立した3つの物語(「何んでも無い」、「殺人リレー」、「火星の女」)からなる怪奇ミステリーで、それぞれタイプの違う3人の若い女性が嵌った地獄絵図が描かれています(「火星の女」は日活ロマンポルノとして小沼勝監督が映画化している)。

3編とも若い女性が主人公ですが、常軌を逸した女の執念の怖さがヒシヒシと伝わってきます。救いがありません。こういう小説ばかり書いていると書いている本人がおかしくなってしまうのではないかと心配になってきます。3編とも新聞の三面記事にありそうな話です。当時世間を騒がせた実際の事件がモデルになっているのかもしれません。

3編の中では「何んでも無い」が一番面白かった(怖かった?)です。主人公の姫草ユリ子はたいへん有能な看護師でしたが極端な二重人格者で病的な虚言癖がありました。自分の嘘に自分が振り回されて自作自演を続けているうちに現実と妄想の境いが曖昧になってきます。そして最後は遺書にまで妄想(=主観的真実)を書くようになります。「何んでも無い」を読んでいると、何がホントで何がウソなのか混乱してきます。

姫草ユリ子の遺書の一節に次のようなくだりがあります。

社会的に地位と名誉のあるお方のお言葉は、たといウソでもホントになり、何も知らない純な少女の言葉は、たとい事実でもウソとなって行く世の中に、何の生甲斐がありましょう。

「社会的に地位と名誉のあるお方」は不必要などうでもいいことでウソはつきません。悪質かどうかはともかくとしてウソをつく場合はそれなりの理由があるものです。理由もなく何んでも無いことでウソをつくのはむしろ「何も知らない純な少女」のほうです。ちなみに、姫草ユリ子は25歳です(どこが純な少女だ)。

しかし、「少女地獄」のようなグロテスクな怪奇物語って・・・好きです。

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