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2008年3月20日 (木)

夏目漱石の「行人」を読む

長野二郎は有楽町のとある事務所に勤務している勤め人です。まだ独身で兄夫婦(一郎と直)と共に番町の実家で両親と同居しています。兄の一郎は気難しい学者です。いつも書斎に篭っていることが多く、性格の不一致から夫婦仲は冷え冷えとしています。一郎との関係が冷え切っている直が気軽に冗談がいえる弟の二郎と親しくなるのは自然の流れです。それがまた一郎の癇に障ります。

一郎は、日ごろの挙動から妻の直が弟の二郎に惚れているのではないかと疑念を抱くようになります。一度疑念を抱くと妄想が膨らんできます。あくまでも自分の判断が正しいと信じる一郎は妄想に一致しない現実を認めようとしません。弟の二郎は疑念を抱く兄に嫌気がさして、家を出て下宿生活を始めるようになります。

家庭内の不和というと、ハラダのやぶきたブレンドのコマーシャルのような嫁と姑の確執が一般的ですが、「いずこも同じ秋の夕暮れ」と笑っていられるのは、夫婦仲がいい家庭の場合です。夫婦仲が険悪だと、お嫁さんもお姑さんの嫁いびりにつき合っている余裕がありません。
夏目漱石の「行人」という小説は、妻との関係がうまくいかず、他の家族(両親、弟、妹など)からも腫れ物に触れるように扱われている暗く淋しい男の物語です。なにがどうしてこうなったのか、学問のやりすぎで頭がおかしくなってしまったのかそれとも持って生れた性格なのか、物語は直と二郎の関係が一郎の妄想に擦り寄っていきかねない危うさを孕んで展開していきます。

夏目漱石の「行人」は、エンジンがかかるまでは焦点が定まらないモタモタした感じのする小説です。序盤で挫折してしまう読者が多いかもしれません。でも、頑張って読み続けているうちに俄然面白くなってきます。中盤になると、日常の何気ない会話にも鬼気迫る緊迫感が漂ってきます。怖いです。「これは漱石文学の最高傑作ではないか」という予感を抱かせます。

ところが、例によって終盤がいけません。漱石の小説はいつも終盤で腰砕けになります。潔く滅びの美学に殉じてしまえばいいのに、最後になると救いを求める自己弁護が始まります。「Hさんの手紙」は一郎を美化するための蛇足です。一郎のモデルが漱石自身であるとすれば、一郎を断罪できないような小説は、自虐的な自然主義文学の立場から「甘い」と批判されても仕方ないかもしれません。

「行人」に限らず、夏目漱石の小説を読んでいてつくづく感じるのは、頑固で凡庸な倫理観が折角の文才を台無しにしているのではないかということです。夏目漱石が私小説的な純文学(恥も外聞もなく自分を曝け出すことを尊しとするならず者の文学)から足を洗って、あの描写力で夢野久作のようなオドロオドロしい世界を描いたら、千年の風雪に耐える大傑作が誕生していたのではないかと思います。残念です。

最後に蛇足です。

鴎外と漱石とを比べて、自分などはむしろ鴎外を重んずるものだが、鴎外には「坊っちゃん」は、ないのである。「高瀬舟」位では、なかなか後世に伝わりにくいのである。鏡花と紅葉とを比べて、天分の上からも作品の上からも、弟子は師を凌いでいるが、「高野聖」や「湯島詣」位では後世に伝わらないのではないか。「金色夜叉」は、まだ五十年や百年は残りそうである。

これは昭和22年5月に「新潮」に掲載された菊池寛の「半自叙伝」の一節です。「DS文学全集」を読んでいたおかげで、ここで菊池寛が言わんとしている事が実によく理解できます。なるほどです。菊池寛は、小説の根底に流れている人情(喜怒哀楽)に時代の風雪に耐える普遍性があるかどうかを見ているのです。言い換えると、時代を超えて読者を感動させる通俗的面白さの有無に注目しているのです。もしそうだとすれば、優れた純文学小説よりも優れた娯楽小説のほうが時代の風雪に耐えられる可能性は高いといえます。もし、世の中に「娯楽作品は短命」という固定観念があるとすれば、それは間違いだと思います。むしろ「娯楽的面白さのない作品は短命」というべきです。

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コメント

自分を信じることができなくなったから、人を信じることができない。人を信じることができなくなったから、自分を信じることができない。私の好きな夏目さんの作品はみんなそれがテーマですね。でも最後はそれでも自分や人を信じることをあきらめたくないという願いが感じられます。君なら信じられるかも知れない、とか誰か助けてほしいとか。文章は非常に読みづらいですが、大切なことはなぜか伝わってきます。そして現代に生きる私とあの頃の夏目さんが同じ感覚を共感できる喜びから、頭がおかしい訳じゃない、一人ではないんだって勇気をもらいます。作家として作品を評価されるのは当たり前ですが、私はその中にあるもっと深い夏目さん自身の苦悩、そして人間のそれを表現したというところを高く評価したいです。

投稿: ま | 2010年9月 7日 (火) 10時56分

先刻読み終えたばかりのこの作品に就いて昂奮に任せて検索をかけてみたところ、二年前のこの記事に行き当たりました。
今更何事かと拙文をくだくだと書き立てるのも些か滑稽な感じがしますが、思うところを書かせていただきます。
あなたの仰るとおり、一郎はいかにも漱石の影を強く感じさせる人物ではありますが、それは彼が自ら語ったように当時凄まじい勢いで旧来の価値観を薙ぎ倒しながら迫っていた「近代」を、学問の追究という形で一身に引き受けていた人物であるということを意味し、漱石は彼に近代の知識人全体(漱石自身も含む)の姿を仮託していたのではないだろうかと思います。
とすると、彼の気難しい性質は生来のものや学問のし過ぎで偶然生じたものではなく、「近代」を窮めていこうとする人間に不可避のものとして暗喩的に描かれたのではないでしょうか。(そうでないとこの作品は、ただの「狂人観察日記」ですよ!)
そうした場合、この人物に「滅びの美学」に則った悲惨な運命を与えることは、すなわち筆者が将来への展望の一切を投げ捨てることと同義であるように思われます。
あなたの言う「凡庸な倫理観」と「近代」との折衷に関して、漱石が非常に悩んでいたことは彼の講演などからも明らかですが、安易な悲観に陥らず、巧妙を求めてもがいた漱石にこそ、一郎の言葉でいう「誠」を彼の作家としての姿勢の中に感ずるのです。
もっともこの作品はハッピーエンドではなく、むしろ暗い将来を示唆するように終わります。彼がキャリアの後期で繰り返し追究したこの問題は容易に解決できるものではなく、次作以降に持ち越されていますね。
近代の価値観が世を覆った後の現代にはこの問題が知識人だけではなく、僕のような凡人にも切実に感じられます。
この作品は未解決の問題を抱えながらも、深い探求の苦悩が刻まれた秀作であると、僕は考えます。

投稿: | 2010年11月 5日 (金) 08時51分


漱石の「行人」を検索したらここに来ました。

読まず嫌いの漱石を読んで、
なんだおもしろいじゃないと思ったものの、
「塵労」のHの手紙文は興ざめです。

「頑固で凡庸な倫理観が折角の文才を台無しにしているのではないかということです」
の文を読んで、同感です。


投稿: ハトリ | 2012年9月 2日 (日) 15時06分

コメントありがとうございます。

同じ小説を読んでも受ける印象は人それぞれですね。夏目漱石に共感していて漱石文学を高く評価している人と、あら探しをしてやろうと思って読んでいる人とでは自ずと感想も違ってくるというものです。でも、自分の感想に同感してもらえるというのはちょっと嬉しいです。

投稿: むぎ | 2012年9月 2日 (日) 20時43分

コメントありがとうございます。

せっかくコメントしてもらったのに見過ごしていました。

ココログには「この記事のすべてのコメントを表示」という機能があります。今回ハトリさんからコメントを頂いて、「この記事のすべてのコメントを表示」をクリックしたところ、2010年11月5日(金)のコメントがあるのを発見しました。

このブログはめったにコメントがないものでうっかり見過ごしてしまうことが多々あります。せっかくの貴重なご意見を無視するかたちになってしまい、大変失礼いたしました。
 
 
個人的な意見として、「近代の価値観」といったものに胡散臭さを感じています。たとえば、「青踏」に象徴されるようないわゆる「新しい女」も、森鴎外に言わせれば、なにも明治以降に登場したのではなく、江戸時代にも「新しい女」はいたということになります。

それから個人の価値観が社会通念と衝突して苦悩するといった構図はいつの時代も変わらないような気がします。個人と社会の軋轢というのはいくら思い悩んだところで解決できるものではありません。そのことに気がつけば悩むこと自体がバカらしくなってくるのではないでしょうか。

>そうでないとこの作品は、ただの「狂人観察日記」ですよ!

まさにそこです。漱石にはむしろ「狂人観察日記」に徹して欲しかったです。漱石の文才をもってすれば、ただの「狂人観察日記」ではなく、日本文学に前例のない鬼気迫る「狂人観察日記」になったと思います。

もっとも、そういうエンターテインメントを目指さなかったところが漱石の漱石たるゆえんかもしれません。

投稿: むぎ | 2012年9月 2日 (日) 21時40分

深い洞察です。
未熟な私には、わかるようなわからないようなですが。

狂人観察日記とは面白い発想ですね。漱石にそういう意識があったのかどうか? あるいはすべて了解のうえ、書くことを楽しんでいたのかもしれません。

とはいえ、
漱石を読むと、しらずしらずストーリーに引き込まれています。まずは読まなくてはと思っています。

2010年11月5日(金)のコメントとは、何を発信したのか? 忘れています。お騒がせして申し訳ありません。

投稿: ハトリ | 2012年9月 4日 (火) 10時42分

コメントありがとうございます。

>漱石を読むと、しらずしらずストーリーに引き込まれています。

そうなんです!!漱石の小説はとにかく読んでいて面白いことは確かです。ヘタなミステリー小説よりもはるかに面白いです。
 
 
それから「2010年11月5日(金)のコメント」というのは別の方のコメントだと思います。遅ればせながらアップしておきました。コメント欄の古いほうから二番目を御覧ください。

投稿: むぎ | 2012年9月 4日 (火) 14時28分

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