« 徳冨蘆花の「不如帰」を読む・その1 | トップページ | 夏目漱石の「門」を読む »

2008年3月 8日 (土)

徳冨蘆花の「不如帰」を読む・その2

「不如帰」には「金色夜叉」の間貫一と同じような境遇の人物が登場します。男爵海軍少尉川島武男の従兄に当たる千々岩安彦です。ただし、千々岩安彦は間貫一と違って品性下劣で狡猾な根っからのワルとして描かれています。

千々岩安彦は孤(みなしご)なりき。父は鹿児島の藩士にて、維新の戦争に討死(うちじに)し、母は安彦が六歳の夏そのころ霍乱(かくらん)と言いけるコレラに斃(たお)れ、六歳の孤児は叔母――父の妹の手に引き取られぬ。父の妹はすなわち川島武男の母なりき。
 叔母(武男の母)はさすがに少しは安彦をあわれみたれども、叔父(武男の父)はこれを厄介者に思いぬ。武男が仙台平の袴をはきて儀式の座につく時、小倉袴の萎(な)えたるを着て下座にすくまされし千々岩は、身は武男のごとく親、財産、地位などのあり余る者ならずして、全くわが拳(こぶし)とわが知恵に世を渡るべき者なるを早く悟り得て、武男を悪(にく)み、叔父をうらめり。

(平民の)安彦を無視して(男爵の)武男と結婚してしまった浪子に、安彦はこんな憎まれ口をたたいたりもします。

「へへへへへ、華族で、金があれば、ばかでも嫁に行く、金がなけりゃどんなに慕っても唾(つばき)もひッかけん、ね、これが当今(いま)の姫御前(ひめごぜ)です。へへへへ、浪子さんなンざそんな事はないですがね」

なんとも嫌味な言い草です。「不如帰」に出てくるこの千々岩安彦という敵役は、「金色夜叉」の間貫一を意識的に皮肉っているような気がしないでもないです。

「不如帰」は明治31年(1898)11月から翌年の5月まで、国民新聞(現在の東京新聞)に掲載された新聞小説ですが、その後民友社から出版されて大ベストレラーになったそうです。10年後の明治42年、「第百版不如帰の巻首に」と題するはしがきで、自作の「不如帰」(あえて「ふじょき」とフリ仮名を振っている)について徳冨健次郎(蘆花)は次のような感想を述べています。

単純な説話で置いたらまだしも、無理に場面をにぎわすためにかき集めた千々岩山木の安っぽい芝居がかりやら、小川某女の蛇足やら、あらをいったら限りがない。百版という呼び声に対してももっとどうにかしたい気もする。

この反省の弁は決して謙遜ではないと思います。徳冨蘆花は「不如帰」に色濃く施されている、よせばよかった「厚化粧」に内心忸怩たる思いをしていただろうと思います。この「第百版不如帰の巻首に」は次のような言葉で締めくくられています。

不如帰のまずいのは自分が不才のいたすところ、それにも関せず読者の感を惹く節があるなら、それは逗子の夏の一夕にある婦人の口に籍(か)って訴えた「浪子」が自ら読者諸君に語るのである。要するに自分は電話の「線(はりがね)」になったまでのこと。

このはしがきが書かれた3年前の明治39年、伊藤左千夫の「野菊の墓」が俳誌「ホトトギス」に発表されています。同じ悲恋物語でも「野菊の墓」のストーリーはいたって単純です。余計なものは一切出てきません。話が横道にそれることもなく、波乱万丈の物語的派手さもありません。華族だのダイヤモンドだのといった都会の煌びやかな世界とはおよそ無縁で、青年将校だの一高生だのといった当時のエリート青年も出てこなければ男を狂わす美貌の女性も出てきません。全体が淡い水彩画のような詩情あふれる悲恋物語です。徳冨蘆花はこの「野菊の墓」をおそらく読んでいたと思います。そして、「負けた」と思ったのではないでしょうか。

|

« 徳冨蘆花の「不如帰」を読む・その1 | トップページ | 夏目漱石の「門」を読む »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/122218/11073315

この記事へのトラックバック一覧です: 徳冨蘆花の「不如帰」を読む・その2:

« 徳冨蘆花の「不如帰」を読む・その1 | トップページ | 夏目漱石の「門」を読む »