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2009年12月20日 (日)

「無花果の森」第35回(12/19)

日経新聞の土曜日の夕刊に「文学周遊」という連載記事があります。小説などの名作の舞台となった土地を訪ねて、作家やその投影である主人公の心象風景を偲ぶ(?)といった読み物です。

19日は川端康成の「たまゆら」が取り上げられていました。「たまゆら」の舞台は宮崎市です。実在する宮崎市のホテル(宮崎観光ホテル)の正面には、川端康成自筆の「たまゆら文学碑」が立っているそうです。

同じ紙面に小池真理子の「無花果の森」が連載されています。もし、将来、「無花果の森」が名作だということになって、どこかにこの小説の文学碑が立てられることになったとします。しかし、岐阜大崖が架空の街で、泉が泊まったホテルも、、大崖商店街も、軽食喫茶ガーベラも、すべて現実の世界には存在しないとしたら、文学碑はどこに立てれはいいのでしょうか……。

 

さて、第35回です。泉は吉彦の暴力に怯えて暮らしてきた日々を回想しています。

 蘇る記憶には、脈絡が何もなかった。時系列もなかった。これまで過ごしてきた時間が、相前後しながら、ばらばらの映像と化して、泉の中に意味もなく映し出されては、消えていくのだった。

   

結婚前、吉彦は泉を次のように評していました。

 「いつも地味に、控えめに陰のほうにいて、絶対に目立とうとしない。にこにこして、一分の隙もないほどの協調性があるけど、実は誰とも本当は親しくはならない。若いころから何かを諦めてきたやつの中に、時々、きみみたいなのがいるよ。でも、きみはそういうのとは違う。芯のところは意外にしっかりしている」(第23回)

結婚後はどうなったかというと、

 (吉彦が命じたことを)ひとつでも忘れると、怒鳴られる。殴られる。そうでなくても不気味なほど敵意ある目つきで見られ、あげくの果てに泉の人間性を徹底的に糾弾される。(第34回)

なにがどうしてこうなったのでしょうか。吉彦は、第21回で、結婚前の泉に対してこんなことも言っています。

「男が最後に守りたいと思っているのは、自分の女なんだよ」

吉彦は自分の個人的な思いを普遍化してしまう性癖があります。ここは「男が」ではなく「俺が」でなければなりません。

泉が吉彦にとって、最後に守りたいと思っていた「自分の女」でなくなってしまった(?)のはどうしてでしょうか。期待はずれ、見込み違い、失望、裏切り……いったい何があったのでしょうか。

吉彦の最初の結婚は、妻の浮気が原因で離婚に至ったとされています。吉彦が泉に暴力を振るうようになったのも、やはり泉の浮気が関係しているのでしょうか。実際に肉体関係がなかったとしても、人の心には「精神的浮気」というのがあります。この「精神的浮気」は、いざ疑われてしまうと誤解を解くのは至難の業です。いや、誤解というよりも、心の中の浮気なら誰でもが経験しているといったほうが正確かもしれません。

「自分の女」の気持が、常に100%自分のほうだけを向いていてくれると期待しても、それはもともと無理というものです。吉彦は非現実的な過度の期待を泉に抱いてやがて失望していったのではないでしょうか。

今回、泉の記憶の中に、泉より一つ年下の曾我一郎というカメラマンが出てきました。この曾我一郎と泉の間になにかがあって、それが吉彦の暴力を誘発したのかもしれません。

泉が曾我一郎に親しげに話しかけていたとか、優しく見つめて微笑んでいたとか、ちょっとしたことがきっかけで吉彦に疑念が生まれ、その疑念が妄想の世界で膨張していった……とりあえず吉彦の暴力が始まった原因はそんなところだろうと予想しておきます。わかりませんけどね。

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