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2010年3月 1日 (月)

小池真理子の「無花果の森」第87回(2/27)まで

家政婦生活にも慣れてきた泉は暇を持て余してきました。

大崖の街で泉が面識のある人は、天坊八重子を除けば軽食喫茶ガーベラのマスターぐらいなものです。何かの縁だし、ガーベラのマスターには天坊八重子のところでお手伝いの仕事(介護の仕事?)を始めたことを報告しておいたほうがいいのではないでしょうか。「お手伝い募集」の貼り紙も剥がしてもらったほうがいいです。暇つぶしとストレス解消を兼ねて、アイスコーヒーでも飲みながらクソババア(天坊八重子)の悪口を言い合って盛り上がっちゃえばいいのにね。

 

泉は寝る前に何か本でも読みたいと考えました。買い物の帰りに古書店に立ち寄って『新約聖書』(一九五四年改訂版)とヘルマンヘッセの『メルヒェン』(昭和二十七年二月発行)を購入しました。二冊でなんと千五百五十円です。そんなに値打ちのある本なのでしょうか。読んでいると眠くなりそうな本です。泉にとっては古い本であればなんでもよかったのかもしれません。しかし千五百五十円はいくらなんでも高すぎです。

 
泉の買った『新約聖書(詩編つき)』には、何箇所かアンダーラインが引かれていました。中でも「詩編」の詩の一節(詩編22の冒頭部分)には、とりわけ波形の濃いラインが引かれていました。

  わが神、わが神、
  なにゆえわたしを捨てられるのですか。
  なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、
  わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。

この部分だけを読むと、自分を救ってくれない「神」にたいする恨み節のような感じになってしまいます。でも、この詩には続きがあります。長くなるので要点をまとめると、

  真の信仰がなければこのように嘆くかもしれません。
  しかしわたしは嘆いたりはしません。
  わが神の救いを信じているからです。

  信じるものは救われます。
  あなたもわが神を信じなさい。アーメン。

こんな感じになると思います。キリスト教によれば、どんなに過酷な試練を与えられても、疑うことなく信じ続けていれば、最後の最後には必ず神の救いがやってくるらしいです。
 

さて、もう一冊のヘルマンヘッセですが、ヘッセには信仰に関する次のような格言があります。

信仰と懐疑とは互いに相応ずる。それは互いに補(おぎな)い合う。懐疑のないところに真の信仰はない。「クリストフ・シュレンプフの追悼」

奇妙な格言もあったものです。逆説のつもりなのでしょうか。罰当たりの無神論者としては、「信仰を捨てれば懐疑も消えてスッキリしますよ」と言いたくなります。

 1.懐疑のないところに真の信仰はない
  
 2.懐疑のあるところに真の信仰はない 

アナタハドチラヲ信ジマスカ?(外人調で)。

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