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2010年7月30日 (金)

小泉純一郎の言いたい放題

2010年7月5日(月)8時0分配信 産経新聞

 小泉純一郎元首相は4日、東京・両国国技館で開かれた証券会社主催のセミナーで講演。自民党政権が果たせなかった行財政改革に期待を示す一方、「ほめ殺し」も交えながら民主党政権を痛烈に批判した。先の衆院選を機に政界引退してまもなく1年となるが、「小泉節」は健在でその影響力はなお大きい。(田中靖人)

自民党政権がなぜ行財政改革を果たせなかったのかというと、郵政選挙で圧勝してしまった結果、自民党内ではむしろ守旧派の勢力が強くなってしまったからです。国民は小泉政権に行財政改革のフリーハンドを与えたつもりで支持したのに、郵政選挙後の自民党は改革への意欲が後退してしまいました。特に参議院で過半数を失ってからの自公政権はひどいものでした。

総選挙で国民から300議席を与えられたら、政権与党はその期待に応えるための政治を死に物狂いになってやらなくてはなりません。しかし、自民党は300議席の上に胡坐をかいてしまったんですね。

 「誰が首相になろうとも、民主党政権になろうとも、自民党政権になろうとも、これからの日本に必要なことを話したい」

 小泉氏は約3千人の聴衆を前にこう切り出した。国技館訪問は平成13年の首相就任直後、横綱、貴乃花関(当時)に「感動した!」と内閣総理大臣杯を渡して以来9年ぶり。万感胸に迫るものがあったようだ。

 先の衆院選について「今度は自民党が下野すると予想していた。それほど自民党に対してあきていた。だから政権交代は当然だった」と持ち上げたが、ここから先は痛烈だった。

 「自民党 らしさ出てきた 民主党」

 小泉氏は最近気に入った川柳を紹介すると「自公政権ができなかった行政の無駄排除を、無理だと思ったがやってほしかった。いざ政権取ったら、やっぱりできなかった」と突き放し、そこからは批判のオンパレード「民主党は、自民党の支持団体を自分の支持に回そうとしている。しがらみをますます作ろうとしている。数千億円カットして数兆円ばらまいている。高速道路のタダなんて税金を使う制度に戻そうというものだ」とこき下ろした。

 「これからの政権は税収より借金が多くなる。新規の政策をやると数兆円カットしないといけない。自民党ができなかった行財政改革を徹底的にやる民主党の姿勢を応援したい。『無駄を見直せば16兆円なんてすぐに出る』と言ったことをぜひ守ってほしい」

 外交政策では日米関係の重要性を強調。小沢一郎民主党前幹事長らが説く「日米中正三角形論」を「極めて危険だ」と指摘し、「中国、韓国、ロシアと、領土問題がある国とどうやって同盟関係を結べるのか」と民主党の外交姿勢への不安を吐露した。

 小泉氏は靖国神社参拝をめぐり対中関係が悪化し、「対米追従」と批判された苦い思い出がある。それだけにこう締めくくった。

 「鳩山由紀夫前首相も学べば学ぶにつけ、ようやく日米関係の重要性が分かってきた。菅直人首相が『日米基軸』と言っても(マスコミや評論家は)『対米一辺倒』と言わなくなった。マスコミや評論家もだんだん冷静になっている。政権交代してよかった…」

   

この記事は「痛烈!!小泉節、健在 国技館で講演 民主を“ほめ殺し”」というタイトルでしたが臨時国会で野党が政府を追及すべきポイントがすべて網羅されていると思います。

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2010年7月27日 (火)

ビンボー焼そば(一人前)の作り方

「ビンボー焼そば」というのは材料費を100円以内に抑えた焼そばのことです。

 1.フライパンに油をひいて、野菜(ピーマン1/2個、キャベツ100g、モヤシ100g)を炒める。
 2.塩コショウで味を調える。
 3.まるちゃんの蒸し焼そば(1人前)を入れてほぐす。
 4.ほんの少し(30mlぐらい)水を加える(モヤシから水分が出るので水を入れすぎない)。
 5.粉末の「焼そばソースの素」を振りかけてまぶす。
 6.あげ玉と削り節を加えてまぜる。
 7.火を止めてお皿に盛る。
 8.青ノリをふりかける。
 9.からしマヨネーズと中農ソースをかける。
10.紅しょうがをそえる。
11.食べる前にフライパンを洗ってしまう(食後だとめんどうになる)。

分量はモヤシで増やします。肉は入れません(高いから)。材料費が100円を超えてしまいそうな場合は、贅沢品(ピーマン、あげ玉、削り節、青ノリ、紅しょうがなど)を適当に省略します。フライパンは直径20cmを使います(大きいと洗うのがめんどくさい)。

 まるちゃんの蒸し焼そば(1人前) 50円
 ピーマン1/2個  10円
 キャベツ100g  10円
 もやし100g  10円
 その他  20円
 合 計  100円

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2010年7月25日 (日)

ドトール サマーキャンペーン 必勝法

今、ドトールコーヒーでアイスドリンクを注文するとサマーキャンペーンということでスクラッチカードがもらえます。10個のスクラッチから3つこすって同じ商品がそろえば当りです。当たるとその商品がもらえます。

「ナメるなよ」ということで、このスクラッチカードの必勝法を考えてみました。あくまでも体験的必勝法ですのでマネしてはずれても怒らないでね。

まず、最初の一手が大事です。

その1
下の段の右から2番目をこすります。もし、アイスコーヒー(S)だったら、上の段の1番右と右から2番目をこすれば当りです。

図解すると、  

 ○○○③②
 ○○○①○

 

その2
同様にして下の段の右から2番目をこすります。もし、アイスカフェラテ(S)だったら下の段の一番左をこすります。最後の一つは運です。上の段の一番左か下の段の一番右のどちらかをこすりましょう。

図解すると

  ③○○○○
  ②○○①○

または

  ○○○○○
  ②○○①③

 
この方法で絶対に当たるかどうかは保証の限りではありません。でも、カードの種類はそれほど多くはないと思います。少なくとも最初からあてずっぽうでこするよりはマシです。最初からあてずっぽうだと当たる確率は120分の1しかありません。

ちなみに、今のところこの方法で3勝4敗です(4連敗のあと3連勝)。

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2010年7月23日 (金)

夏の連ドラを楽しんでいますか?

いくつか楽しめそうなドラマをピックアップしてみました。

◎「GM~踊れドクター」
夏の連ドラは「GM~踊れドクター」がダントツで面白いです。このドラマは、総合診療(通称ソウシン)という真面目なテーマを扱う一方で、テレ隠しのように不真面目な設定があれこれと盛り込まれています。

お笑いの世界にギャグやダジャレが全然面白くないのが芸風という芸人がいます。すべることによって笑いをとるすべり芸人(?)と呼ばれている人たちです。面白くないぞと期待していると、予想通りに面白くありません。面白くないのになぜか大笑いさせられます。ダチョウ倶楽部の上島竜平とか、デーブ・スベクターとか、ふかわりょうとか……。

「GM~踊れドクター」にもすべりそうなギャグがふんだんに取り入れられています。このドラマのギャグが面白くないと感じた人は、白ける前に、だから面白いんだということに気がつかなくてはいけません。

 もともとこんな顔なんですよ、ぷんぷん。

×「GOLD」
オリンピックで金メダルを目指すというお話です。天海祐希と長澤まさみの掛け合い漫才が楽しめます。天海祐希が長澤まさみのモノマネをして「そんなあ~」などといったりします。天海祐希は高飛車な女を演じても嫌味にならない稀有な女優さんです。

○「ホタルノヒカリ2」
いかにも少女マンガにありそうな設定のドラマです。でも面白いです。干物女・綾瀬はるかのワンマンショーだと思って楽しむといいです。全体の雰囲気がどこか「のだめカンタービレ」に似ています。

△「夏の恋は虹色に輝く」
売れない二世俳優(松本潤)が年上でバツイチのアラサー女(竹内結子)に恋をするというお話です。人生をやり直したいと思っている三十路女の見果てぬ夢をドラマ化するとこんな感じになるのでしょうか。映像がとてもきれいです。面白くなるかどうかはまだわかりません。

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2010年7月22日 (木)

「ゲゲゲの女房」・水木プロダクション

『月刊漫画ガロ』の1968年6月号に水木プロダクションのアシスタント募集広告が載っていました。誰が考えたのか(おそらく水木さんでしょう)、とても味わい深い文面です。読んでいるだけでジワ~ッとおかしさがこみ上げてきます。

 

  水木プロ
   アシスタント募集

一、給料
 (コーヒー二杯つき)
 二万円(下手な人)~五万円(うまい人)
 ボーナスは少ない。
 昇給年二回

二、すぐやめる人はキライ

三、日曜は休み
 徹夜のときはあくる日休み

四、毎月十日とか十五日でも可

五、女でも男でもよい
 宿泊の施設あり。

六、午後二時から十時まで
 勤務時間は話し合いで何とでもなる。近くに住む人は午後二時から十二時まで このほうは給料がよい。(しかしつらいね)

七、絵は下手でもよい
 誰でも二、三年すればうまくなる。しかし上手な人はなおさらよい。
 
 
期日はなく、常時募集していますが、アシスタントが多すぎるときはお断りします。来るとき、自分の作品を見せて下さい。
 
 K・K水木プロダクション
 調布市富士見町*の*の**
 TEL 0424(82)****

  

昔はプライバシーがどうの個人情報がどうのといった社会通念がありませんでした。もちろん個人情報保護法などという法律もありませんでした。マンガ家の住所や電話番号など平気で雑誌の紙面に明記されていました(励ましのお便りを出そうとか)。

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2010年7月20日 (火)

小池真理子の「無花果の森」・第202回(7/17)まで

夏の連続テレビドラマで「逃亡弁護士」(フジテレビ系列毎週火曜日22:00~) というのをやっています。別に面白いドラマというわけではありません。どちらかといえば面白くないドラマです。

何者かの罠によって、主人公の弁護士・成田誠(上地雄輔)は強盗殺人、放火、横領の容疑者にされてしまいます。動かぬ証拠も犯行に至った動機もすべて都合よく捏造されています。このまま逮捕されてしまえば確実に死刑です。

成田誠は入院中の病院からスキをみて逃亡します。捕まって死刑になるか、それとも冤罪を晴らすことができるか、逃亡弁護士の戦いの始まります。

脚本がダメなのか、演出がヘタクソなのか、演技力に問題があるのか、配役ミスなのか……イマイチ感動の薄いドラマです(子どもを使って視聴者を感動させようとするドラマの場合、子役に演技力がないと致命的ですぞ)。

さて、日経新聞夕刊に連載されている「無花果の森」の塚本鉄治も無実の罪を着せられて逃亡中です。しかし、鉄治の容疑は殺人などではなくて、覚せい剤取締法違反(覚せい剤の所持)です。犯罪には違いありませんが、指名手配犯として逃亡するにはちょっと罪状が軽すぎます。鉄治は、私服刑事を振り切って逃げてしまったため、公務執行妨害罪にも問われることになります。こちらの罪のほうがむしろ重いかもしれません。

もし、わたしが新谷泉だったら、鉄治には自首を勧めます。とっさの出来心で逃げてしまったということで自首すれば公務執行妨害については不起訴にしてもらえるかもしれません。取調べで事情を説明しても信じてもらえなかったら、ウソでもいいから反省の態度を示して執行猶予にしてもらうことです。供述調書には(事実ではなくても)素直にサインしましょう。世の中、長いものには巻かれたほうが得策というケースもあります。覚せい剤の件は「以後気をつけろ」という三浜作次郎からの警告のようなものです(たぶん)。コンクリート詰めにされて東京湾に沈められたくなかったら、二度と三浜作次郎のような男には近づかないことです。
  

泉は夫の暴力に耐えかねて失踪しましたが、いまだに夫の影に怯えています。でも、この広い日本の中で、失踪して身を隠している人間を個人の力で見つけ出すことなどほとんど不可能です(捜索願など単なる形式にすぎません)。泉の心理をリアルに考察すれば、失踪を決めて自宅を出たとき、夫が追いかけてくるのではないかという恐怖心よりも暴力の支配から逃れられたという安堵感のほうがはるかに大きかったと思います。なぜもっと早く決断しなかったのかと、思わず笑みがこぼれてくるほどの解放感があったはずです。

泉にしても、鉄治にしても、だいたいこのふたりはものの考え方がネガティブです。ありもしない恐怖に怯えて絶望ごっこをしているような感じです。お互いに惹かれ合っていくのはけっこうですが、わが身を削ってでも相手の幸せを考えるような展開にならないと感動のドラマにはなりません(そういう小説ではないか)。

感動のドラマ……なぜこんなことを考えてしまうかというと、どうも最近はテレビドラマの観過ぎなのかもしれません。テレビドラマに感動を期待するあまり、その延長線上で小説も読んでしまいます。もし、鉄治が泉の父親かあるいは兄だったら、泉には吉彦と正式に離婚することを勧めると思います。中途半端に逃げるのではなく、きっちりと絶縁するのです。人間には誰だって幸せになる権利があります。泉がどうすれば幸せになれるのか、鉄治が泉のことを親身になって考えていれば、泉が現状に甘んじていることに反省を促すはずです。陽のあたる場所で堂々と生きていく権利をそう簡単に放棄していいはずはありません。

 二人は、崖から転がり落ちて辿り着いた、暗い谷底に息をひそめて生きている。互いが手を伸ばせば届くところにいることを認め合い、許し合い、それどころか、そのことで心慰められている。

こういうのが要するに「絶望ごっこ」なんです。泉にしても、鉄治にしても、自分はともかくとして、相手を「暗い谷底」から救い出すにはどうすればいいかを真剣に考えてもらいたいです。
  
   
鉄治から何の連絡もないまま、金曜日の夜がやってきました。

 その晩、遅くなってから、泉は意を決して鉄治の携帯に電話をかけた。

鉄治は泉からの電話を待っていました。泉がもう少し逡巡していれば、しびれをきらして鉄治のほうから電話をかけてきたと思います。何をやっているのでしょうか、この二人は。
 
7月の第3月曜日は海の日で祝日です。泉も鉄治も連休になります。鉄治は泉に「今度の日曜日はゆっくり夕食でも」と提案しました。要するに泊まっていきなさいということです(違うかな?)。
 
この夕食については、泉が材料を買っていって腕によりをかけて(?)作ることになりました。

 先のことを、これほど心躍る思いの中で考えるのは久しぶりだった。明後日は何を作ろうか、と泉は考えをめぐらせた。

こんなことでウキウキするようでは、泉さんの「世捨て人」も当てになりませんね。本物の世捨て人になるには百年早いです。

 本当にピクニックの予定でもたてているような気分になった。忘れていた幸福感、浮き足立つような感覚が泉の中に甦った。

これでは単なる普通の人です。

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2010年7月13日 (火)

小池真理子の「無花果の森」・第196回(7/10)まで

泉が大崖の古書店で購入した『新訳聖書』には、「山本かず子」という署名がしてありました。この「山本かず子」というのは天坊八重子の本名ではないかとずっと思っていましたが、いまだに真相は不明です。

泉が『新訳聖書』といっしょに購入したヘルマン・ヘッセの『メルヒェン』には「一九五二年盛夏、東京銀座にて求む」と記されていました。この『メルヒェン』も「山本かず子」の蔵書だった可能性が高いです。

一九五二年といえば、今(2009年)から五十七年前です。山本かず子が天坊八重子だったとすると、五十七年前ならまだ二十代前半です。妖怪・天坊八重子にも当然のことながら若いころがありました。「聖書」を読んだり、ヘルマン・ヘッセを読んだりして真面目に(?)青春をしていた時代があったのかもしれません。
  
 
足腰が不自由な天坊八重子は、土曜日の朝に二階から一階に下りて来ると、土曜日の夜は二階に上がらずに一階で寝ることになります。日曜日は泉が休みのため、二階に上がってしまうと日曜日に一階に下りられなくなるからです。

日曜日の食事はどうしているのでしょうか。朝食は抜きで、あとは出前ですませているのかもしれません。泉が休みのため、日曜日の夜もそのまま一階で寝ることになります。

土曜日の朝に二階から下りてきた天坊八重子が再び二階へ上がるのは月曜日の夜です。泉が日曜日に1日休むだけで、足腰が不自由な天坊八重子は、土曜、日曜、月曜と三日間ずーっと一階で暮らすことになります。いいかげんベッド(?)を下に下ろして二階に上がるのやめればいいのにね。
  
 
さて、その後、泉は鉄治から連絡がないまま金曜日の夕方を迎えていました。この間、泉は鉄治から電話がかかってくるのではないかと、やきもきしながら待っていました。

鉄治が泉に電話して「忘れていましたが、来週も来てくださいね」と言うか、泉が鉄治に電話して「来週も伺ってよろしいですか?」と言うか、どちらからでも思いついたほうがすぐに電話すればいいだけの話なのですが、現在の泉(38)と鉄治(42)はほとんど初心(うぶ)な中学生状態です。恋心(?)が芽生えてしまうと、よほどの鉄面皮でない限りどんな人でも優柔不断になります。いや、泉と鉄治はふたりとももともと性格が優柔不断なのかもしれません。

   

泉は、天坊八重子がシャワーを浴びている間に、夕食を運んでこられるようテーブルの上を片付けていました。

 泉は、八重子のデッサン用の古い、二冊の大型スケッチブックの下に、薄手の本が一冊、さし挟まれていることに気がついた。

泉がふと表紙を見ると「富永草介詩集」とありました。泉の部屋で死んだという売れない詩人の本です。

 青色の扉のページ部分に、黒いサインペンで「誰よりも愛しい人、八重子へ」とあった。署名は「富永草介」、日付は「一九八七年四月三日」だった。

かつて天坊八重子はこの詩人のことを泉にこんなふうに話していました。

 「八つ年下の男。売れない詩人。でも、そりゃあ、いい男だったよ。美男でね。あたしとは古い友達。彼が五十いくつになった時だったか、女房に愛想つかされて、離婚して、独り身になったんだけどさ。その後、食うや食わずで、あぶなく路上生活者になりそうになった。でもって、見かねてあたしがここに住めと言ってやったのよ。もちろん、家賃はただで」

この売れない詩人は、天坊八重子にとって、もともとは単なる茶飲み友達ではなかったようです。今は妖怪のような天坊八重子も、昔はぽっちゃりとした(?)それなりの美人だったかもしれません。富永草介は八重子よりも八歳年下でしたが、それくらいの年齢差なら許容範囲です。新聞報道によれば、恋多き女優・松雪泰子(37歳)など、10歳年下の恋人(ラッパー)と熱愛中だそうです。

 富永草介という詩人は、八重子の恋人だったのだ、と思った。どの程度の深いつきあいをしたのかわからない。どれほど情熱的に想い合っていたのかもわからない。だが、何があったにせよ、二人は間違いなく、男女の関係にあったのだろう、少なくともかつて、そういう時期があったのだろう、と泉は確信した。

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2010年7月 9日 (金)

水木しげる入門・内田編集長の話

水木しげるのメジャーデビューについては、水木しげるの自叙伝を読んでもあまりくわしく書かれていません。

 暑い夏の日のことだった。また「少年マガジン」からやってきた。暑そうだったので、コップに水を入れて出すと(ただの水)、ぐぐっと飲んで、
 「編集方針が変わりましたので自由に三十二ページやってください」
 と言った。僕は、ひきうけた。
 作品が掲載されたのは、昭和四十年八月の「別冊少年マガジン」だった。「テレビくん」という幻想マンガだった。
 これを機会に、雑誌の注文がどんどん来はじめるようになった。

                        「ねぼけ人生」(水木しげる著・ちくま文庫)

たったこれだけです。「テレビくん」は講談社の児童まんが賞を受賞した作品ですが、「墓場の鬼太郎」や「悪魔くん」についてはまったく触れられていません。これではわけがわからんということで、別の角度から調べてみることにしました。

昭和四十年(1965年)といえば東京オリンピックが開催された翌年です。週刊少年マンガ誌の覇権をめぐって少年サンデーと少年マガジンが死闘を繰り広げていた時期です。でも、どちらかというと少年サンデーのほうが優勢でした。

少年サンデーは、「伊賀の影丸」(横山光輝)、「おそ松くん」(赤塚不二夫)、「オバケのQ太郎」(藤子不二雄)といった強力な三本柱が健在でした。

一方の少年マガジンは不運が続いていました。まず桑田次郎が拳銃不法所持で逮捕されて「8マン」が打ち切りに。続いて手塚治虫の「W3」が盗作騒ぎで移籍。さらにはちばてつやの「ハリスの旋風」が新婚旅行のために長期休載……マガジンはサンデーに大きく水をあけられていました(当時の発行部数は、サンデー60万部、マガジン35万部+α)。

1965年7月、劣勢を挽回するために新しく少年マガジンの編集長に抜擢されたのが弱冠三十歳の内田勝(ドラマ「ゲゲゲの女房」では豊川悟)です。創刊して6年間赤字が続いていた少年マガジンを立て直せるかどうかは内田勝の双肩にかかっていました。

その内田勝が編集長として心に決めたことがありました。「サンデーをはじめライバルとなるマンガ誌を一切読まないこと」です。ライバル誌にどんなマンガが掲載されているかというのは、ある意味では一番知りたい気になる情報です。しかし、競合している他のマンガ誌を読んでしまうと、その面白さに影響されてしまって、出てくるアイディアがどうしても二番煎じになってしまいます。

内田勝が考えたのは、もっとも知りたい情報をあえて遮断することによって、ライバル誌(特に少年サンデー)と徹底的な差別化を図ることでした。

そうした上で、マンガ業界を俯瞰で眺めてみると、あることに気付いた。手塚治虫の流れを汲む太い線の明るいマンガが、相変わらず主流とされていたのである。ギャグの天才・赤塚不二夫にしても、元は手塚に憧れて上京し、手塚を模倣した作品からスタートしている。貸本から人気作家に躍進した白土三平にしても、初期の作品には、手塚色がないこともない。

                        『サンデーとマガジン 創刊と死闘の15年』

 

このような状況認識から出発してライバル誌と徹底的な差別化を図ろうとすれば、アンチ手塚路線を打ち出すしかありません。そして手塚マンガともっとも遠いところにあったのが貸本マンガでした。

アンチ手塚路線を模索していた内田勝にとっては、消滅寸前の貸本マンガ業界で悪戦苦闘を続けていた当時の貸本マンガ家が宝の山に見えたのではないでしょうか。その貸本マンガ家の中でも、もっとも手塚的でない(=人類の明るい未来とは無縁の)マンガを描いていたのが水木しげるでした。内田勝はまず水木しげるに白羽の矢を立てることになります。

 東京・調布の深大寺にある仕事場を訪ねた内田は、息を呑んだ。水木は、体をよじって腕のない左肩で紙を押さえ、ぐわっと見開いた眼は紙から数センチのところで、残った右手で執念を込めるようにして墓場の場面をコツコツとペンで点を打ちながら描いてゆくのである。
 点描する音はいつ果てることもなく続く……内田は思わずゾッとして鳥肌が立った。

                        『サンデーとマガジン 創刊と死闘の15年』

「墓場の鬼太郎」は夏休み特別企画として3回ほど『週刊少年マガジン』に掲載されました。読者の反応はさっぱりだったそうです。子どもには内容が怖すぎたのかもしれません。そこで、今度は作品を替えて「悪魔くん」で再チャレンジすることにしました。

このころの内田勝は、「何が何でも水木しげるを売り出してみせる」という執念に燃えていたのだろうと思います。編集者をそういう気にさせるのも、ある意味ではマンガ家の才能(?)であるといえるかもしれません。

「悪魔くん」が実写特撮でテレビ番組化の話が決まってから、こんどこそ本丸の「鬼太郎」を人気作品に押し上げようと、あの手この手で「鬼太郎」のメジャー化作戦が始まりました。

水木の人気は読者アンケートで相変わらずビリ争いだった。かつて、牧野編集長時代はビリを3回続けてとると、有無をいわさず打ち切りだったが、内田は水木を信じ、黙って連載を継続させた。

                        『サンデーとマガジン 創刊と死闘の15年』

  

そして思わぬところから「鬼太郎」の人気に火がつくことになるのですが、詳しくは『サンデーとマガジン 創刊と死闘の15年』(大野茂著・光文社新書)を読んでください。

  

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2010年7月 6日 (火)

小池真理子の「無花果の森」・第190回(7/3)まで

「指名手配」について調べてみました。フリー百科辞典のウィキペディアによれば、指名手配とは、「逮捕状が出ているが、被疑者の所在が不明である場合に行うものであり、通常は全国の警察に手配する」となっています。

1.逮捕状が出ている
2.被疑者の所在が不明

この2条件が満たされたときに指名手配となるようです。ただし、この指名手配は、「国家公安委員会が定めた警察内部の取り決め(行政規則)」にすぎません。「一般人に当然に公表されるという法的効果を持つわけではない」とのことです。つまり、顔写真が公表されて公開捜査が行われるのは、指名手配の中のごく一部の事件(殺人や放火などの凶悪事件)だけです。

鉄治のケースは直ちに逮捕状が出されて、全国に指名手配されたことはほぼ間違いないと思います。ただ、覚せい剤不法所持そのものは殺人や放火に比べれば微罪です。「発見したら捕まえてください」程度の感じでそれほど熱心には捜査しないと思います(警察だって忙しい)。

凶悪事件の場合、公共施設などに被疑者の顔写真や氏名などを配布して一般市民にも協力を呼びかける公開捜査という手法が取られますが、それでも犯人を捕まえるのはそれほど簡単ではありません。鉄治は顔写真が公表されて公開捜査が行われているわけではないですから、そんなにビクビクして潜伏していなくても大丈夫ですよ(たぶん)。

三浜作次郎にしてみれば、身辺をウロチョロするうるさいハエ(=鉄治)を追い払った程度のことで、鉄治が警察に捕まろうが捕まるまいが、目の前からいなくなってくれれば目的は達したことになると思います。

気になるのは、日経新聞に掲載されている「あらすじ」です。日経新聞の「あらすじ」によれば、鉄治は「警察幹部が絡む事件で無実の罪を着せられ」となっています。覚せい剤不法所持に警察幹部がどう絡んでくるのか今のところまだ不明です(大道ひなの父親が警察幹部なのだろうか?)。
  

さて、話の様子から鉄治に妻子はいないだろうと想像していましたが、鉄治はバツイチでした。離婚したのは2年前です。中学1年の娘が一人いて母親が引き取っています。このパターンは、一度離婚している新谷吉彦と同じです。ただし、離婚の原因が違います。新谷吉彦は妻の浮気が原因でしたが、塚本鉄治は仕事のやりすぎ(?)が原因です。鉄治としては、泉を前にして、夫(つまり自分)の浮気が原因で離婚したとは言いにくいでしょう。ここは仕事のやりすぎということにしておきましょう(体を張って仕事をしていたら浮気と勘違いされた?)。

 

 耐えがたいような外の烈しい雨を耳にしながら、泉はふと、鉄治と二人、ホームレスになっている自分を想像した。

泉には何かと妄想癖があるみたいです。泉はだんだん上の空になってきて、鉄治に訊かれても正直には答えられないようなやらしいことを想像していました。

小説には書かれていませんが、烈しい雨の音を聞きながら、自分の世界に没頭して沈黙している泉に、けげんに思った鉄治が問いかけるシーンがあってもよかったです。

「泉さん」
「えっ?」
「何を考えているのですか」
「いえ、あのその……」

   

さて、泉が鉄治のマンションから天坊八重子の長屋に戻ったのは、六時過ぎでした。雨は依然として烈しく降っています。

 その日、帰りがけ、鉄治と次に会う約束をしなかったことが気になっていた。事情をすべて打ち明けて、精も根もつき果てたのか、次に会う約束のことなどに頭がまわらなかったようだ。鉄治は別れ際、何も言わなかった。泉も次の約束には触れなかった。

泉も鉄治も日曜日に特に用事があるわけではありません。泉が、次の日曜日の二時に、まるで約束があったかのように鉄治のマンションを訪れれば、鉄治がドアを開けて、まるで約束があったかのように「お待ちしていました」ということになるのではないでしょうか。

 鉄治と交わす約束が、その光を生み出していた。次の日曜にまた彼と会う、という約束。交わされた約束は、一つのささやかな希望でもあった。泉は今の自分が、ただそれだけのことを支えにし、生きるよすがにしようとしていたことを知った。

約束してないから行かない、などと野暮なことは言わないで、会いたいという気持に正直になることが大切です。約束なんか必要ありません。押しかけてしまいなさい(人ごとだと思って)。

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2010年7月 3日 (土)

水木しげる入門・「ガロ」の話

テレビドラマ「ゲゲゲの女房」に嵐星社の深沢洋一が創刊した「ゼタ」という漫画雑誌が出てきます。この「ゼタ」は、「ガロ」という伝説の漫画雑誌(月刊誌)がモデルになっています。字面(じづら)が何となく似ていますね。

フリー百科事典「Wikipedia 」は、「ガロ (雑誌) 」について、雑誌名の由来や創刊当時の目的について次のように解説しています。

『ガロ』は1964年、それまで貸本漫画の出版などで知られていた編集者、長井勝一により創刊された。その誌名は白土三平の漫画「やませ」に登場する忍者「大摩のガロ」から取っている。

その題材・内容とスケールから連載する場所が無かった白土の漫画『カムイ伝』の連載の場とすることが創刊の最大の目的であった。同時に、活躍の場を失いつつあった貸本漫画家への媒体提供と、新人発掘のためという側面もあった。

詳細は → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AD_(%E9%9B%91%E8%AA%8C)

長井勝一(深沢洋一のモデル)が立ち上げた青林堂(嵐星社のモデル)という出版社は、「ガロ」を創刊する前は、白土三平の作品を中心に貸本向けの単行本を出版していました。ほとんど壊滅状態だった貸本漫画界でも白土三平の漫画だけは依然として高い人気を保っていたようです。

『「ガロ」編集長 私の戦後マンガ出版史』(長井勝一著・ちくまぶっくす)の中で、長井勝一は次のように述べています。

「サスケ」だけでなく、「いしみつ」、「掟」、「二年ね太郎」、「灰色熊の伝説(上、下)」なども含めて、三平さんの印税だけで三百万円くらいになったはずだが、三平さんには一銭も払っていない。『ガロ』をやるための資金にしろといってくれたのだ。

赤字続きの新雑誌『ガロ』の運転資金を白土三平が全面的に提供してくれていたのです。当時の三百万円といえば、現在の貨幣価値なら数千万円に相当します。大金です。白土三平の描く漫画は豪快ですが、白土三平はお金に対しても太っ腹で豪快な人だったようです。こういう人でないと、人間とは何か、自然とは何か、歴史とは何か、といった壮大なテーマを扱うスケールの大きい漫画は描けなかったかもしれません。

水木しげるがこの白土三平に初めて会ったとき(昭和四十年秋)のことを次のように述べています。

 待ち合わせ場所の王子駅に行ってみたが、まだ誰も来ていない。僕(水木しげる)に会いたがっている三平氏も早目に来るようなことだったのに来ていない。駅のベンチには真黒な足をしたルンペンのような男が寝ているだけだ。
 古武士のような厳格な三平氏が時間に遅れてくるはずはないと考え、ひょっとすると思って、ベンチのルンペンふうの男の顔をのぞいてみると、長髪とヒゲとホコリにまみれた中に、写真などで見たおもかげがあった。

                    「ねぼけ人生」(水木しげる・ちくま文庫)

このルンペンふうの男が「偉大なる白土三平大先生」だったそうです。
   

テレビドラマ「ゲゲゲの女房」は水木しげるの奥さんが主役のドラマであるため、白土三平(ドラマでは赤土四郎)は出てこないかもしれません。故意に伏せているような気もします(偉大過ぎるため)。長井勝一(ドラマでは深沢洋一)が衰退する貸本漫画業界にありながら、あまりお金に困っている様子がなかったのは、おそらく白土三平の漫画を出版していたからだと思います。長井勝一はこんな告白(?)もしています。

わたしが小金井の病院に入院したときは、ほとんどスッカラカンで、一文無しに近い状態だった。それを、始終見舞いに来ては、何から何まで面倒をみてくれたのが三平さんだった。わたしの体に手術を受けられるだけの体力がつき、七本の肋骨におさらばしたのは、一九六二年(昭和三十七年)の一月だったが、手術の費用を用意してくれたのも三平さんである。

                    『「ガロ」編集長 私の戦後マンガ出版史』

 

一九六二年十月に「忍者武芸帳 影丸伝」が完結してから、白土三平は次の大作である「カムイ伝(第一部)」の構想を練っていました。しかし、完全主義者(?)の白土三平のことです。構想が纏まるまで待っていたのではいつになるのかわかったものではありません。

そこで辣腕編集者(?)の長井勝一はとんでもない奇策を考えました。問答無用で『ガロ』を創刊してしまったのです。新作がないので創刊号に収録されたのは白土三平の旧作(「白土三平傑作選」)です。新作が連載されるはずの雑誌が新作を待たずに創刊されてしまったのです。いざ創刊してしまえば、いつまでも旧作の傑作選で凌いでいるわけにいかなくなります。早く新作を描いてもらわなくては困ります、というわけです。

結局、「カムイ伝(第一部)」の連載が始まったのは、創刊から四号目に当たる一九六四年の十二月号からでした。「カムイ伝(第一部)」は一九七一年の七月号で完結しますが、白土三平はこの作品を失敗作だと考えていて(謙遜かも知れません)、「あのとき、長井さんがあんまり急がせたものだから、うまくいかなかった」と、ことあるごとにこぼしていた(?)そうです。でも、最初の構想通りにいかなかったとしても、「カムイ伝(第一部)」は決して失敗作ではありません。失敗作どころか二度と描けない不朽の名作になっています。これには長井さんにも言い分があります。

物事には時機というものがあると思うのだ。急いだために失敗したという点があると同時に、そのときやっておかなければできなかったことというのも、あるだろう。いまある「カムイ伝(第一部)」は、いろいろ欠点があるにしても、やはり三平さんでなければ描けない立派な作品だし、それは、あのとき、無理しても毎月百枚描くということをしなければできなかったものだ、と思うのである。

                    『「ガロ」編集長 私の戦後マンガ出版史』

まさにその通りだと思います。白土三平に毎月百枚のノルマを課して、長井さんがせっついてくれたおかげで「カムイ伝(第一部)」という大作が出来上がったともいえます。ぼやいてばかりいないで感謝もしなくてはいけません。
 
 
さて、初期のころの『ガロ』は、あくまでも白土三平・赤目プロの「カムイ伝(第一部)」がメインでした(なにしろ全ページの3分の2が「カムイ伝」だった)。そんな中でもうひとつの柱となったのが水木しげるでした。

このころの水木さんは、たんに水木しげるの名前で発表した作品だけで『ガロ』に登場していたわけではない。たとえば、一九六五年四月号を見ていただくと、その活躍ぶりがよくわかる。ここでは、まず水木しげる名で、「剣豪とぼたもち」がある。ついで水木さんの本名の武良茂の名で「イソップ式漫画講座」として、「どうなってんの」と「これはたまらん」の二つの掌篇を描いている。また同じ武良茂の名で「劇画小史」を、これは文章で書いている。水木さんが飄逸でユーモラスな調子の文章の書き手であることは、御存知の方もいられるだろう。「劇画小史」にもそれが生きているが、ここではもう一つ、東新一郎という名前で、「ロータリー」という欄に、社会戯評を書いているのだ。まさしく、一人四役で大車輪の活躍をしているのだ。
                    『「ガロ」編集長 私の戦後マンガ出版史』

まあ、多くの人が参加して作っているんだという感じの目次にしたかったのでしょう。『ガロ』の目次に水木しげるの名前がズラリと並んでしまったのでは体裁が悪かったのだと思います。

水木しげるの「剣豪とぼたもち」は今読んでも面白いです。峠の茶店で剣豪・宮本武蔵が雲助と注文のあとさきでもめて、ぼたもちの奪い合いを始めます。みにくい奪い合いの末、雲助にぼたもちを食べられてしまった武蔵は、絶望と怒りのあまりに刀を抜いて雲助の片耳を切り落としてしまいます……まあ、腹が減っているときは剣豪も大名もお姫様もへったくれもない、というお話です。

この「剣豪とぼたもち」は、想像上だけの話にしてはあまりにもリアルです。おそらく水木しげるはどこかで似たような体験をしていたのだろうと思います。長井勝一はこういう奇妙な味わいのある(?)水木しげるの短編が好きだったようです。

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2010年7月 1日 (木)

菅首相 消費増税 低所得者、全額還付も 年収水準に言及

6月30日22時21分配信 毎日新聞

 菅直人首相は30日、山形市内での参院選街頭演説で、消費税率を引き上げた場合の低所得者対策について「年収300万円、400万円以下の人には、かかる税金分だけ全部還付する方式(もある)」との考えを示した。

政治家が演説で、非現実的で自分でもできるわけがないと考えていることをしゃべる時の顔って、どこか似ていませんか。

テレビのニュースで菅首相の演説する様子を見ていたら、3年前に宙に浮いた年金問題で「最後の1人、最後の1円まで年金を支払う」と絶叫していた(当時の)安倍首相の顔がダブってきました。

いやしくも内閣総理大臣です。苦し紛れに、思いつきで、自分でも信じられないようなことを軽々しく口にするのはやめたほうがいいと思います。与野党を問わず、選挙演説における党首の言葉は、その政党の公約であると国民は解釈します。

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