尖閣諸島問題・日本の凋落
今回の衝突事件は9月7日という民主党代表選の最中に起きました。菅直人としては、法令に従って粛々と処理するよう指示するしかなかったと思います(もし、政治的判断で代表選の最中に船長を強制送還していたら、その弱腰が批判されて菅直人は代表選に負けていたかもしれません)。菅陣営としては、中国との外交関係よりも国内世論(=民主党世論)への影響を重視せざるをえなかったと思います。
この事件は、起きたタイミングがあまりにも微妙です。邪推をすれば、(代表選の)情勢を不利と見た誰かが、中国政府に要請して事件を起こしてもらったのではないかと勘ぐりたくなってきます。実際、今回のへっぴり腰の「政治判断」が代表選の最中になされていたら代表選の結果はどうなっていたか……。
2004年にも中国人グループが尖閣諸島に上陸するという似たような事件が起きました。あのときは3月24日に逮捕した中国人グループ7人を26日には強制送還しています。参考までに当時の新聞記事をどうぞ(asahi.comより)。
2004年(03/24 21:00)
日中両政府、冷静な対応を強調 尖閣諸島の上陸問題
24日に起きた尖閣諸島への中国人グループの上陸問題で、日本政府が上陸した7人の逮捕に踏み切ったことに、中国側は在日大使館を通じて抗議を申し入れた。ただ、日中両国とも冷静に対応する方針は変わらないとみられる。日中関係が歴史問題など複雑な問題を抱える中、双方とも領土問題での対立を再燃させたくないとの事情があるからだ。中国側は7人の身柄の安全確保などを求めており、日本側も警察で事情を調べたうえで強制送還の手続きを進める構えだ。小泉首相は24日夜、中国の活動家の逮捕について「法令に従ってきちんと対応した結果です。法令に従うのは、法治国家として当然」と記者団に述べた。一方、日中関係に与える影響に関しては「できるだけ冷静に対処する必要がある」と語った。逮捕についても「現場の判断だ」と強調し、実務的に対処する姿勢を強調している。
中国や香港の活動家らが尖閣諸島上陸をめざして船を出す動きはこれまでもあったが、日本政府は船を海上で阻止してきた。96年に上陸した際には一行が自主的に退去した。今回、中国の活動家7人の手こぎボートによる上陸には事前の情報は得ておらず、日本政府にとって「間隙(かんげき)を突かれた」(福田官房長官)形となった。
竹内行夫外務次官は24日午前、中国の武大偉駐日大使を外務省に呼び、強く抗議した。
ただ、日中両国は「共通利益の拡大」を掲げ協調に力を入れているだけに、日本政府の本音は問題を大きくしたくないとの思いだ。高島肇久外務報道官は「これによって特にことが荒立てられるようなことはないように処理を進める」と、冷静に対応する考えを強調した。
一方、中国外務省の孔泉(コン・チュワン)報道局長は24日午後、「日本側は冷静に対応し、彼らの身体の安全に危害を加えないよう求める」との談話を発表した。「釣魚島(魚釣島の中国名)とその付属島嶼(とうしょ)は古来から中国固有の領土だ」とし、中国の領有権を改めて主張している。
ただ、談話では同時に「島をめぐる中日双方の争いについて、中国政府は一貫して話し合いで解決することを主張している」とも指摘。領有権主張の原則は維持しつつも、この問題が必要以上に注目されれば中国国内の根強い反日感情がさらに悪化することを懸念して、日中双方に落ち着いた対応を求めた。 2004年(03/24 21:00)
2004年(03/26 03:01)
官邸、「法律に従って対処」指示 尖閣諸島上陸
「事故のないよう法律に従って対処してくれ」
24日午後3時55分、首相官邸の執務室。小泉首相は中国人と見られる活動家7人の沖縄県・尖閣諸島魚釣島への上陸について、野田健内閣危機管理監から初めて説明を受け、こう指示した。
この時点で、沖縄県警の警官らはまだ魚釣島には入っていなかった。
「7人は凶器を持っているかもしれません」
野田氏が恐れたのは活動家たちの抵抗だった。そうなれば、逮捕には危険が伴う。野田氏は首相に「対処要領に沿って行動します」と伝えるしかなかった。
対処要領は、96年、香港などの活動家が上陸した事件を機に、警察庁と法務省、外務省、防衛庁などがまとめたものだ。不法上陸者は、警察か入管職員が現場の判断で身柄を拘束する。付近に上陸者の船舶があれば、強制退去させることもあるが、船舶が付近にはない場合は逮捕する。
政府関係者によると、当初、状況次第では県警に同行した法務省の入国管理担当者が身柄を確保し、強制退去させることも考えていた。
ただ、県警は石垣島に集結して入管担当者と合流した午後2時ごろの段階で「逮捕の方針を固めていた」(幹部)。
「上陸という事実が厳然とあり、尖閣は日本国の領土である以上、逮捕すべきだ」。県警内にさほどの議論はなかった。
だが、逮捕は外交問題に発展しかねないことから、警察庁に逮捕の方針を伝えて判断を仰いだ。回答は「現場の判断に任せる」だったという。
警官たちがヘリコプターで島に上陸したのは午後4時半。最後の1人を逮捕したのは午後7時過ぎ。7人が上陸した午前7時20分から12時間近くが過ぎていた。
午後8時15分。首相は再び執務室で、野田氏から「7人逮捕」の報告を受けた。首相は一言「ご苦労さん」とねぎらった。 2004年(03/26 03:01)
2004年(03/26 21:55)
尖閣上陸の中国人強制送還、法務当局の意向受け入れ
沖縄県の尖閣諸島・魚釣島への中国人の不法上陸事件で、県警は26日午後、逮捕した7人の身柄を福岡入国管理局那覇支局に引き渡した。入管は7人を強制送還することを決め、同日午後8時半すぎ、7人は那覇空港から中国東方航空機で上海に向けて出国した。県警は当初、那覇地検に送検して捜査を継続する方針だったが、法務当局の見解を受け入れ、方針を転換した。沖縄県警の新岡邦良・警備部長は7人の身柄を入管に引き渡した後、記者会見し「法務当局と警察庁と協議し、あくまで捜査状況と法に基づいて入管に引き渡した」と語った。ただ、「他に罪を犯した恐れがあり、捜査は引き続き続ける」とも述べ、逮捕に踏み切った県警として立場の苦しさをうかがわせた。
出入国管理法65条は、容疑者を入管に引き渡せるのは他に罪を犯した疑いのないときに限るとしている。県警は当初、魚釣島での実況見分などを基に、島にあった社に焼かれたような跡があるなどとして本格的な取り調べのために送検する方針だった。
新岡警備部長は方針を転換したことについて「法務当局の見解は『他に罪を犯した恐れがあるとしても、特定の人物が犯人だという証拠がない場合、引き渡しを妨げるものではない』という説明で『不法滞在の外国人はできるだけ国外退去させるのが望ましい』ということだった」と述べた。
この事件を巡っては、中国外務省高官らが早期釈放を繰り返し求め、中国では活動家たちが日の丸を燃やすなどの抗議行動に出たり、新たな上陸船を魚釣島に送り出す動きを見せたりするなど中国側に反発が強まっていた。 2004年(03/26 21:55)
2004年(03/27 01:14)
中国、早期決着に安どか 尖閣上陸の中国人強制退去
中国外務省の孔泉(コン・チュワン)報道局長は26日夜、日本に逮捕された7人が中国に戻ったことを受けて、日本側の対応に「強い憤慨」を示す一方、「中国は新世紀の中日関係を発展させたい」とする談話を発表した。「即時無条件での釈放」を要求した翌日に帰国が実現したことに、中国側はひとまず安堵(あんど)した模様だ。北京の日本大使館前で活動家が日の丸を焼くなど、一部の中国国民の間でナショナリズムが高まるなか、7人の拘束が長引けば「日本に対して無力だ」などと、自国民から批判を浴びせられる恐れもあったからだ。中国は7人が魚釣島に上陸した直後は、日本側に自制を求めつつ「平和的な話し合いで解決すべきだ」としていた。その後、日本が逮捕に踏み切ったことは想定外だったようで、「争いのある地域で発生した問題は国際法で対処すべきなのに、国内法を適用したのは前代未聞だ」(在日大使館の黄星原・報道参事官)などと強く反発した。
日中関係筋によると、日本が7人の拘束を続けた場合、中国側は4月3日からの川口外相の訪中について「このままでは招く雰囲気ではない」と延期を申し入れることも含め、「小泉政権の政治判断を求めていた」とされる。
2004年(03/27 01:14)
2004年(03/28 21:55)
「法律より外交優先した印象」 尖閣問題で中川経産相
中川経産相は28日、北海道函館市内のタウンミーティング後の記者会見で、尖閣諸島・魚釣島への不法上陸事件で逮捕された中国人活動家を送検せずに強制送還したことについて、「これが法律違反とか特別の措置だとは思っていないが、現実をみると、日本の法律よりも外交上の配慮を優先したという印象をもっている」と述べた。小泉首相は今回の判断について26日の記者会見で「法に基づいて適切に処理すると同時に、問題が日中関係に悪影響を与えないよう、大局的に判断するという基本方針を関係当局に指示していた」と語っている。
2004年(03/28 21:55)
2004年(03/31 14:51)
先鋭化する領有争い 尖閣上陸巡る日本の対応
中国人活動家による尖閣諸島・魚釣島(中国名・釣魚島)への不法上陸事件で、日本は領土問題への対応の難しさを改めて突き付けられた。政府は「日本固有の領土」という主張に沿い、活動家を逮捕した。だが最終的には、送検を避けて強制送還に。30年を超える領有争いの歴史は、法執行と政治判断のさじ加減の連続だった。ただ近年、中国が周辺海域での活動を活発化。日本の政治家の姿勢も強硬になりつつある。
◇資源確保と軍事、背景に
尖閣諸島は、沖縄県八重山諸島の北方約170キロに散在する五つの島と三つの岩礁から成っている。行政区は同県石垣市、総面積は約6.3平方キロに過ぎない。20世紀初め、魚釣島でかつお節工場が操業したが、40年から再び無人島に。大正島以外は民有地だが、現在はすべて国が借り上げている。
海上保安庁の巡視船が常時、1、2隻で付近を警戒し、日本が実効支配を続けている。
この何もない無人島をめぐり、近隣諸国間で領有権が争われている背景には、資源確保と軍事という二つの事情がある。
中国と台湾が領有の主張を始めたのは70年から。付近に豊富な石油・天然ガス資源埋蔵の可能性を指摘した69年の国連調査報告が発端だった。しかも、尖閣諸島が浮かぶ東シナ海は、中国海軍が太平洋に展開するうえで軍事的な重要性も持つ。
中国は産油国だが、93年から石油の純輸入国に転じた。日本外務省によれば、日本の排他的経済水域(EEZ)での中国海洋調査船の活動は、今年に入って太平洋で11件確認され、昨年1年間の8件をすでに上回った。日本側は、調査船は塩分濃度や海水速度、海底の地形など「潜水艦の航行に必要な資料も集めている」(防衛庁)とみる。
◇「手上げず」一転「毅然と」
3月24日、日本政府は中国人活動家を逮捕した。96年の紛争時、島を守る海保職員らに「決して手を上げずに押し返せ」と指示した首相官邸の姿勢は、大きく変わったといえる。24日の関係省庁会議では、東シナ海への影響を強める中国をにらみ、「毅然(きぜん)と対応すべきだ」との意見が出た。
自民党、民主党の一部では、尖閣諸島を日本の領土と確認する国会決議を求める動きも出始め、30日には衆院安保委員会が領有権を確認する決議を可決した。自民党国防族のある議員は「強い姿勢をとることが高い評価を受ける近道、という考えが流行している」と解説する。
一方、中国側にもナショナリズムの高まりがある。小泉首相の靖国神社参拝や中国国内での日本人による買春問題などで中国の民衆の対日感情は悪化している。今回の活動家たちの行動もそうした文脈の中で起こった。
しかも、活動家たちは逮捕を覚悟していたようだ。従来と異なり、上陸予定日を偽って海保の警備を突破。母船が領海外に去り、「逮捕するしか選択肢がなくなった」(政府関係者)という。
最終的には「日中関係に悪影響を与えない大局的な判断」(小泉首相)で、早期決着が図られた。外務省で対中外交に携わった浅井基文・明治学院大教授は「領土問題は国民感情に直結する。尖閣諸島問題は、爆発したら日中関係全体が吹っ飛びかねない火種だ」と警告する。
過去にも緊迫した場面があった。前回、紛争が起きた96年秋。早期警戒機E2Cが5機、青森県の航空自衛隊三沢基地から那覇基地に飛来した。ヘリによる上陸を阻む目的だった。関係者によれば、同年10月10日から約10日間、尖閣諸島東北沖にE2Cが、東南東沖にF4ファントム戦闘機が展開した。首相官邸では武器使用の是非さえ議論された。ヘリが警告を無視し続けた場合、対領空侵犯措置に従って「粛々と対応する」ことを申し合わせた。ヘリは結局、来なかった。
同年9月、香港の活動家が、尖閣諸島の周辺海域に飛び込み死亡した。台湾の国防部(国防省)顧問によれば、台湾軍は同様の事故を恐れて、軍の救難ヘリ派遣を検討した。しかし、自衛隊との連絡手段がわからず混乱。最終的に「軍事的緊張を高める」として断念したという。
今、日中の軍事交流は停滞したまま。緊急事態に備えたホットライン設置は「はるか先の話」(自衛隊幹部)というのが実情だ。
78年に中国の実力者、トウ小平氏は「次の世代は、我々よりもっと知恵があろう」と述べ、問題を先送りした。東アジア地域におけるナショナリズムの高まりの中で、練達の指導者の提案は次第にかすんでいくようだ。
〈竹島・北方領土 実効支配の壁、交渉は停滞〉
日本はこのほか、韓国との間で竹島(韓国名・独島)、ロシアとの間で北方領土の領有権を、それぞれ争っている。いずれも相手国が実効支配し、具体的な衝突は近年起きていない。
竹島は12世紀以降の日韓両国の文書に記述が残る。日本が1905年に領土編入したが、第2次大戦後の52年、韓国が竹島を含む海域に「李承晩(イ・スンマン)ライン」を設置。54年からは武装要員が常駐し、実効支配を続けている。
77年の海洋2法施行時や96年の国連海洋法条約発効時に、問題が再燃。日本は、橋本首相が96年12月の参院予算委で「立場の相違が友好関係を損なう状況は作りたくない」と述べるなど、問題を先送りする姿勢で臨み、棚上げしている。
97年11月の港湾施設の完成や、04年1月の「竹島」切手の発行など、韓国側にしばしば挑発行為がみられるが、大きな衝突には至っていない。
北方領土をめぐっては、日本は、色丹・国後・択捉各島と歯舞諸島について「第2次大戦直後からソ連及びロシアが不法な占拠を続けている」と主張。ソ連は冷戦時代には領土問題があること自体を否定したが、ゴルバチョフ政権になって問題の存在を確認。エリツィン大統領は93年の東京宣言で「四島」の帰属問題の存在を認めた。しかし、その後、ロシアの政権交代や日本の対ロ外交体制の混乱などがあり、交渉は停滞したままだ。 2004年(03/31 14:51)
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