« 二宮和也の「フリーター、家を買う。」・第5話を観る | トップページ | 二宮和也の「フリーター、家を買う。」・第6話を観る »

2010年12月 8日 (水)

小池真理子の「無花果の森」・第319回(12/8)まで

この小説は、想像力を働かせて次ぎの展開を予想するとだいたいはずれます。上と思えば下、右と思えば左、前と思えば後、とにかくよくはずれます。「そりゃないだろう」と思っても小説の世界は作者が神様です。神様の御宣託には従わなくてはなりません。残念無念です。

 住んでいる場所が特定されないよう、仕事が休みの日に、川崎から東京都内まで電車で出て、秋葉原駅近くのポストに封書を投函した。

この文章を素直に読めば、泉はJRの川崎駅から東海道線(または京浜東北線)に乗って秋葉原に行ったと解釈するしかありません。川崎市多摩区説は却下です。封書を投函したのがなぜ秋葉原だったのかは不明です。何か買いたい家電があったのかもしれません。

ポストに投函された封書には、泉が署名捺印をした離婚届が入っています。あとは吉彦が署名捺印をして区役所に提出すれば離婚が成立します。でも、吉彦のことですから、めんどくさがってほったらかしにするかも知れません。
 
 
かつて泉が住んでいた新谷吉彦の自宅は東京の目黒区にあります。最寄の駅は東横線の都立大学駅です。JRの川崎駅からは、直線距離にして15km程度しか離れていません。泉が川崎に長く住んでいれば、どこかで知り合いとバッタリ出くわしてしまう可能性はかなり高いです。
 
失踪直後、東京から遠く離れた名古屋駅でさえ知り合いに出くわすのではないかとビクビクしていた泉です。川崎で暮らすというのはかなり辛いと思います。気が休まらないのではないでしょうか。天坊八重子も因果な場所を紹介してくれたものです。
 
 
さて、「終章」に入ってからというものこの小説も小説内の時間の流れが速くなってきました。時は流れて(2010年の)3月3日(桃の節句)です。三浜プロの三浜作次郎と人気歌手の大道ひなが覚せい剤取締法違反で逮捕されました。大道ひなは三浜プロのトップアイドルです。連日テレビや新聞、週刊誌がこぞってこの衝撃的ニュースを報道しました。号外が出たかもしれません。

それからきっかりひと月後、『週刊時代』に「三浜プロをめぐる薬物汚染の驚くべき真相」と題された特集記事が大々的に掲載された。

副題には「裏で取材にあたった本誌記者も被害者に」とあった。

週刊誌の記事というのはタイトルは衝撃的でも、読んでみるとたいしたことなかったりすることが多いです。しかし、この記事は違っていました。泉は何度も繰り返して記事を読みました。それは明らかに鉄治が書いた記事でした。

だとすると鉄治の冤罪はすでに晴れているのでしょうか。どうして泉に連絡してこないのでしょうか。泉の方からだって連絡の方法はあります。泉はどうして『週刊時代』の編集部に問い合せないのでしょうか。こういうときに、ただ淋しがっているだけで何もしないのが泉の悪い癖です。
 
  
さらに時は流れました。光陰矢のごとしです。春が過ぎて夏が過ぎて早くも晩秋となりました。11月です。言い忘れましたが、泉の誕生日は10月です。強引に作者の誕生日と同じということにすれば10月28日です。免許証を更新した日から逆算するとだいたいそんな感じになります。去年(2009年)の10月に39歳の誕生日を迎え、今年の10月には40歳になっています。

  

11月半ばのことです。その日は冷たい雨が降っていました。いつものようにクリーニング店で働いていた泉のところに、天坊八重子が亡くなったという知らせがありました。一昨日、絵の制作中に八重子は急死したそうです。今夜が通夜で明日が告別式です。

 到着の少し遅れた泉が、係りの男に案内されて入った天坊八重子の告別式会場は、線香の香りと花の香りが混ざり合って、むせ返るほどだった。

この天坊八重子の告別式に鉄治が現れるのではないでしょうか(たまには予感が当たってほしいものです)。

|

« 二宮和也の「フリーター、家を買う。」・第5話を観る | トップページ | 二宮和也の「フリーター、家を買う。」・第6話を観る »

コメント

「無花果の森」を精読されているのが良く分かります。
私も、2名の世間に顔を晒したくない男女の出会いとその進行に興味を惹かれていました。
それだけに、最後の琵琶湖へのドライブが、男の警察への出頭目的であって、それが最後の最後まで泉に知らされていなかったことが釈然としませんでした。男が出頭のために歩き去っていく、そして警察官と対面して引き立てられていく場面。それを呆然と見送る泉。なにもわからいまま一人で車を運転して帰っていくのです。
どんな気持ちだったのか!何か最後を急ぎすぎた感があります。
それまでの二人の関係からして、このシーンが空白のまま書き残されたような感じを持ちました。いかがでしょう。そのシーンがもう少し書き込まれても良かったのでは、と思いますが。

投稿: mandf | 2010年12月22日 (水) 22時47分

コメントありがとうございます。

あまりにも残酷で空白にするしかなかったのではないでしょうか?

それはともかくとして、「何か最後を急ぎすぎた感があります」というのはまったくそのとおりだと思います。琵琶湖へのドライブは小説全体のまだ折り返し地点ぐらいだと思っていました。
 
連載が始まる前に日経新聞に掲載されていた予告(?)では、

「映画監督の夫の暴力から逃げ、地方都市に流れ着いた30代の女と、警察幹部が絡む事件で無実の罪を着せられ、この寂れた土地に潜伏している週刊誌記者の男を描きます。不思議な因縁で結びつけられた2人はひかれ合いますが、追い詰められていく中で過去の謎が明らかになり、人間の業が浮かび上がります」

と紹介されていました。

これでは「看板(?)に偽りあり」ですね。

投稿: むぎ | 2010年12月22日 (水) 23時58分

コメント有難く拝見しました。琵琶湖へのドライヴがまだ折り返し地点とお感じの方がおいでになるのに意を強くしました。
私は日経の予告は見ていませんでしたが、「確かに看板に偽りあり」かもしれませんね。この二人のこれからというところで、いきなり画家の死へと繋がってしまい、その場面でのすれ違いといった感じで突如幕が引かれた感がしました。それに私がコメントを書く気になったのは、作者のこの小説の連載を終えてという寄稿[22日付け夕刊]を見たからでした。しかも、「この無花果が楽園を追放された二人を象徴される木」とかかれている以上、もう少し書き込んで欲しかったと思う次第です。

投稿: mandf | 2010年12月23日 (木) 22時27分

読者の勝手な解釈が許されているのが小説のいいところです。そこで、読者としての勝手な解釈です。

この小説で泉と鉄治のふたりを岐阜大崖の街で引き合わせたのは天坊八重子でした。離ればなれになったふたりを自分の命と引き換えに再び引き合わせたのも天坊八重子でした。完結した小説を振り返ってみると、この小説の本当の主人公は天坊八重子だったような気がします。「無花果の森」とは天坊八重子の暗喩(メタファー)ではないでしょうか。ただ、そのことに作者は気がついていません(きっぱり)。

この小説の中に作者の分身がいるとすれば、それは天坊八重子です。天坊八重子は未来の作者自身の姿です。あなおそろし。

投稿: むぎ | 2010年12月24日 (金) 10時20分

とても意表をつくご意見、確かに作者もきがついていないのかもしれませんが、面白いですね。連載を終えてという寄稿文の終わりに「本作の
メタファーとして、楽園を追放された男女を象徴して無花果が使われた」、とあるので、この作品の男女がアダムとイブなのか、その原罪に苦しむという設定かとも思われましたが、仮にそうであったとして、その原罪を覆うべく八重子が無花果を描き続ける,だからその死にあたっては、もはや覆い隠すものも不要で自身も「ゼンラ」であったのかとも思えました。
然し作者は最後に「不幸な時代がやって来たのだ」と思いを述べている一方、「その時代の不幸を塗り替えるの矢張り人の心なのだ、と締めくくっています。作者の原罪に対する意識も知る必要がありそうですが、読者にも色々考えさせますね。著者に聞いてみたい気になります。[22日の夕刊はご覧済みでしょうか?]

投稿: mandf | 2010年12月25日 (土) 00時20分

22日の夕刊の寄稿文は読みました。あの寄稿文を読む限り小池真理子氏に信仰心はないような気がします(むしろ無神論者っぽい)。キリスト教の原罪について訊ねても、「クリスチャンではありませんので」と答えるのではないでしょうか。

ただ、その時代の不幸を心によって塗り替えるというのは、宗教的発想であるともいえます。これからの日本には心によっては塗り替えることのできない絶対的不幸の時代が確実にやってきます。そういう時代になればなるほど心によってその時代の不幸を塗り替えようとするインセンティブは強くなるかもしれません。つまりインチキ宗教が流行りだすということです。「人の心は脆いようで強い」ともいえますが、「人の心は強いようで脆い」ともいえます。

10年後の日本から10前の現在の日本を振り返れば、西暦2010年はまだ幸せな時代だったと懐かしがることになると思います。もし作家が小説の中に政治問題や社会問題を取り入れるなら、日本の少子高齢化が極限に達した世界を、その想像力によって描いてもらいたいです。でも、個人的には、小説に政治性や社会性は期待していません。期待するのはエンターテインメントとしての面白さです。

投稿: むぎ | 2010年12月25日 (土) 14時48分

著者が信仰心を持っていないという前提に立つと、この小説に対する解釈はまた変わったものになるように思いますが、殊更に楽園を追放された男女を象徴する無花果をメタファーとして取り上げたからには、どうしても原罪についてどのように考えるかについての言及は避けて通れない問題と思います。そして、これから多々の問題を抱える日本、しかも一神教ではない日本が、一神教の国々とどのように付き合っていくのかが、一番の問題のように思えます。またその一神教の国々が黄昏を迎えつつあるかもしれない中で、果たしてどのような役割を演じられるのか。既にアニメや、ゲームの世界、又は俳句といった分野、あるいは原子物理学といった科学の分野でも、日本の特色が注目されているのも確かのようですから、ある意味では期待がないことはない、と思いますが、コメントの交換で色々考えさせられ有難く思っています。以上

投稿: mandf | 2010年12月26日 (日) 14時28分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/122218/38006761

この記事へのトラックバック一覧です: 小池真理子の「無花果の森」・第319回(12/8)まで:

« 二宮和也の「フリーター、家を買う。」・第5話を観る | トップページ | 二宮和也の「フリーター、家を買う。」・第6話を観る »