「空の拳」は日経新聞夕刊に連載中のボクシング小説ですが、東日本大震災の特別紙面のため連載が中断されていました。連載が再開されたのは25日(金)からです。連載中断前は、出版社に勤めている空也が同期会に参加するというお話でした。
第64回
この小説の第2回に次のような記述があります。
同期入社したのは七人だが、入社三年目の現在、残っているのは空也を入れて四人である。その四人で、昨日飲みにいった。空也以外の三人はときどきいっしょに飲んでいて、声を掛けられることもあるが空也はいつも断っていた。
空也は同期入社の三人を「ノリが軽くて薄っぺらいことしか言わない、ちゃらけた人種」と見なして無視していました……と思っていたのですが、実はそうではなかったみたいです。どうやら無視されていたのは空也のほうです。
空也は五歳年下の坂本秀志路と鉄槌ジムで知り合いになりますが、坂本のアパートに泊まるのがうれしくてたまらなかったり(第23回)、坂本から鉄槌ジムの飲み会に誘われてはしゃいだり(第31回)しています。これは会社で同期入社の三人に相手にされず、他に友だちもいなくて寂しかったからです。今思えばそのように考えられます。
空也と同期で入社したメンバーは次の三人です。
川口弓恵 二十代の働く女性をターゲットにした女性誌に所属。
江野正 仕事より私生活を重視。何で出版社に就職したのかは不明。
田中芙美 上司と不倫関係の噂がある。翻訳部署に移動。空也とは少し親しい?
十月も中旬になり六月の人事異動から四ヶ月が経過しました。いつもなら無視している空也に田中芙美がうっかり声をかけてしまいました。「しまった」と思ったときはもう遅く、同期の食事会に芙美が空也を誘った形になってしまいました。空也は久しぶりに同期会に参加することになりました。
場所は青山のリストランテ(イタリア語でレストランの意)です。空也が得意な(?)居酒屋や焼き鳥屋ではなく、高級レストランです。こういう店は空也にとっては場違いで落ち着きません。ラフな服装だと睨まれたりもします。困ったね。
空也が店に入り席に案内されると、先にきていた川口弓恵と江野正がけげんな顔をして空也を見ました。
「いや、なんかすみませんねえ、いきなりきちゃって」空也は嫌味と自覚しながら言い、
「何言ってんの、同期じゃない、私たち」弓恵がゆったりほほえんだ。
空也は「招かざる客」です。何だか白けた雰囲気になってきました。
第65回
七時を少し過ぎてから田中芙美があらわれてメンバーがそろいました。
西暦2000年はオーストラリアのシドニーでオリンピックが開催された年です(9/13~10/1)。この大会では女子マラソンの高橋尚子がオリンピック新記録で金メダルを獲得、「最高でも金、最低でも金」と豪語していた柔道の田村亮子(現・谷亮子)もその言葉通り金メダルを獲得しました。
シドニーオリンピックのことなどを話題にしながら、同期の三人が楽しそうにおしゃべりをしています。しかし空也は参加できずに蚊帳の外です。
「クーちゃん、決まった?」芙美に訊かれ、
「いいよ、わかんないから、まかす。きみとおんなじのにして」空也は言ってメニュウをテーブルに置いた。
メニュウにはわけのわからない横文字がやたらと並んでいました。空也は何を注文していいのかわかりません。芙美はうっかり空也に声をかけたようでいて、実は空也を呼んで恥をかかせて楽しんでいるのかもしれません。嫌な性格。でも、これも一種の愛情表現かもしれません。
気がつくと、三人はレストランと食べものの話ではなく、パスタを食べながら仕事の話をしていた。
だいたいこういうときの仕事の話というのは、自分の有能ぶりをアピールしようと、背伸びをして偉そうなことを言い出すのが通例です。たとえば、さも自分の意見であるかのように、日ごろ先輩から聞かされている話を受け売りしたりします。
第66回
二十代の働く女性をターゲットにした女性誌で仕事をしている川口弓恵は、(一般の人には?)聞き慣れないファッション業界のブランド名を並べて、これからは趣味の違いによって雑誌の購買層を設定すべきだという自説(?)を主張しました。弓恵は、あくまでも読者を年齢層で捉えようとしている保守的な会社の編集方針に不満です。これからは年齢の違いがあまり意味をもたなくなるエイジレスの時代になるから頭を切り替えなくてはいけないというのです。
この弓恵の意見に翻訳部署に勤務している田中芙美が賛同しました。芙美は、(一般の人には?)聞きなれない新潮クレスト・ブックスの作品名を並べて、新潮社がいかにいい仕事をしているかを力説します。それに比べて保守的な「わが社」は安定した有名作家でないと翻訳契約にOKが出ません。これでは海外の新進気鋭の作家を発掘して紹介しようとしてもうまくいきません。
営業部でチンタラ仕事をしているはずの江野正も議論に加わってきました。正は、これから流行りそうな電子書籍の話を持出してきて紙の雑誌の将来を憂いてみせました。
焦ったのは空也です。先見的な意見がポンポン出てくる同期入社のメンバーに比べて、空也は旧態依然としたボクシング雑誌で悪戦苦闘しています。まさに保守的で旧弊にとらわれている世界にどっぷりと浸かっているのです。この四ヵ月というもの、ジムに通ったり、ボクシングの試合を観戦したりして、空也は空也なりに一生懸命仕事に取り組んできたつもりでした。しかし気がついてみると、自分だけが同期のメンバーから取り残されている感じになっていました。
沈黙している空也に、「クーちゃんはどう、もう慣れた?」と芙美が声をかけてくれました。
「ま、ジムに入会して、ちょっとは近いところで雑誌を作ろうとぼくは思っているけどね」置いていかれるのはいやだった。まだそんなところにいるのかと思われるのはいやだった。
第67回
同じ背伸びをするのでも、空也の背伸びは紋切り型の演説みたいになってしまってスマートさがありません。弓恵や江野は適当に話を合わせながら内心では「やれやれ」と思っています(たぶん)。
芙美が空也の話なんか興味がないと言わんばかりに突然「マルコヴィッチの穴」(1999年に制作されたアメリカ映画。日本では2000年9月23日に公開)という映画に話題を変えてしまいました。
話の腰を折られた空也は、なんだか馬鹿にされたような気分になりました。不愉快になってヤケ酒を煽ったようです。
空也は酔いすぎると記憶を失くすクセがあります。この日もいつのまにか見覚えのないバーのカウンターで芙美と並んで座っていました。空也は、沢木耕太郎の『一瞬の夏』のような一般の読者にも読んでもらえるスポーツノンフィクションを書くんだと、芙美を相手に息巻いていました。ふと気がつくとどうも様子が変です。
「あれ、いつの間に店、変わったの」芙美に訊いた。
「クーちゃん、だいぶ酔ったね、女の子口調になってるもん。さ、帰ろうか」
空也は酔うと記憶を失くすだけでなく酒癖も悪いです。やたらと芙美にからみます。それと、(尾木ママのような)女の子口調になるクセもあるみたいです。これはじめて知りました。そっちの気があるのでしょうか。
普通なら酔いつぶれた空也などほったらかして帰ってしまっても不思議はないのですが、芙美は根が優しいのかもしれません。最後まで空也に付き合ってくれます。「最後まで」といっても変な意味ではありませんよ。
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