2010年12月 3日 (金)

「政治とカネ」(海部俊樹著・新潮新書)を読む

ホリエモンこと堀江貴文氏は「徹底抗戦」(集英社文庫)という告白本の中で次のように述べています。

 この本に書かれたことは、私側からみたライブドア事件の「真実」である。当然私が書いているわけだから、どうしても我田引水的な内容は多くなる。そのことをできるだけ自重したつもりではあるが、広い心で読んでいただきたいと思う。

こういう言わずもがなのことを正直に言ってしまうところがホリエモンの欠点でもあるし長所でもあります。何ごとにも正直なんですね。

確かに、回顧録とか告白本というのは、どんなに自重しても自己正当化の心理が働いてしまうものです。元内閣総理大臣・海部俊樹の「政治とカネ」という回顧録も、ほとんどが我田引水的な自慢話です(本人はそうではないと言い張っている)。したがって最後まで読み切るには少し敬老精神が必要になります。広い心で読みましょう。
 

この「政治とカネ」という回顧録の中で、唯一ためになったのは、小沢一郎に言及している部分です。海部俊樹も小沢一郎には相当頭にきていたらしく、その怒りのほどが伝わってきます。
 
小沢一郎が新進党の党首だったころ、「小沢氏との確執で、党員たちが櫛の歯が抜けるように離党していった」そうです。

離党者が続出したのは、小沢一郎の「問答無用のやり方、会議に出ないこと、密室政治、人を呼び出す傲慢さ、反対派への報復人事」、これらへの反発が原因だったとされています。「黙って俺の言うことを聞け」と言わんばかりの小沢一郎のやり方や態度というのは今もそれほど変わっていないような気がします。良識のある政治家なら誰でも小沢一郎とは距離を置きたくなるのではないでしょうか。

現在小沢一郎を強く支持している民主党の議員というのは、小沢一郎を利用しようとしている「悪人」かあるいは良識の欠如した「善人」かのどちらかです。
 

   「担ぐ御輿は、軽くてパーなヤツが一番いい」

これは小沢一郎が海部内閣の幹事長だったときの言葉です。「軽くてパーなヤツ」というのは時の内閣総理大臣・海部俊樹のことです。人づてにこの件を聞いた海部俊樹が激怒して(?)小沢一郎に問い質したところ、小沢一郎は「言った憶えは断じてない」と答えたそうです。要するに「言ったかもしれないが、記憶にありません」ということですね。

小沢一郎のこういう考え方も今もそれほど変わっていないと思います。民主党の代表選で小沢一郎に支持されたら、小沢一郎から「軽くてパーなヤツ」と思われているということです。間違っても自分を評価してくれる理解者だと思ってはいけません。

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2009年5月17日 (日)

「サンデーとマガジン 創刊と死闘の15年」(大野茂著・光文社新書)を読む

マンガ編集者に焦点を当てて、草創期の週刊少年マンガ誌の覇権争いを描いた本です。サンデーとマガジンのまさに死闘と呼ぶのにふさわしい熾烈な闘いが描かれています。「伊賀の影丸」、「おそ松くん」、「巨人の星」、「あしたのジョー」など、当時一世を風靡した名作マンガの裏話なども紹介されています。

流行っている音楽や映画には、必ずプロデューサーがいるように、どんな天才作家がいて傑作が生まれたとしても、それを世の中に広めるためには、編集者という陰の仕掛人の存在が必要である。黒子に徹してきた編集者の大衆をつかむプロデュース感覚、ポップカルチャーへの大いなる功績はもっとみんなに知られてもよい。まして「サンデー」と「マガジン」という2つの週刊少年誌の競い合いがなかったら、現在の日本のマンガ文化の隆盛はなかったといっても大袈裟ではない。その闘い歴史には、個性豊かな編集部員たちの人間ドラマが秘められていたのである。

この本によれば、かつてはマンガというだけですべて悪書とみなされていた時代があったそうです。手塚治虫の「鉄腕アトム」でさえ、悪書追放運動の標的にされたことがありました。しかし、そんなことぐらいで驚いてはいけません。さらに時代を遡ると夏目漱石の小説が「悪書」だった時代もあったそうです。

 マンガは悪書だと騒がれていたその時から半世紀ほど前、今から遡ること100年ちょっと前、明治末期の新聞にこんな記事が載せられていたという。

  近年の子どもは夏目漱石などの小説ばかりを読んで漢文を読まない。これは子どもの危機である。

 歴史は繰り返される。文豪の作品もまた、悪書だったのである。

昔の新聞小説というのは、一般大衆を喜ばせるための娯楽でした。現在のマンガやアニメと似たような存在だったのだと思います。

「サンデーとマガジン 創刊と死闘の15年」には、「週刊少年マガジン」に連載されていた「あしたのジョー」にまつわるエピソードがいろいろ紹介されています。その中に文豪・三島由紀夫が「あしたのジョー」のファンだったという有名な話が出てきます。

マガジンの発売日当日の深夜、三島由紀夫が突如、講談社のマガジン編集部に姿を現したのである。三島は毎週マガジンを買うのを楽しみにしていたが、その日に限って映画の撮影(『黒蜥蜴』松竹/監督:深作欣二、主演・丸山明宏<現・美輪明宏>)で夜中になり買うところもなくなったので、編集部で売ってもらおうとやって来たのだった。財布を出した三島に対して、編集部ではお金のやりとりができないから、1冊どうぞと差し出すと嬉しそうに持ち帰ったという。

昔は24時間営業のコンビニなどはありませんでした。したがって、夜になって書店が閉店してしまうともう雑誌を買うことができなくなります。三島由紀夫は「あしたのジョー」が読みたくて翌日まで待てなかったらしいです。

これと似たような話が夏目漱石にもあります。読売新聞に連載されていた尾崎紅葉の「金色夜叉」が大評判だったころの話です。そのころ熊本五高の先生をしていた夏目漱石は、「切り抜きを送ってくれと奥さんの実家に頼むほど」(関川夏央)この小説が読みたかったそうです。

話が横道にそれてしまいましたが、「サンデーとマガジン 創刊と死闘の15年」には、古きよき時代の香りがする男たちの物語が描かれています。1958年から1973年までの15年間は、ちょうど日本経済の高度成長期に重なります。マンガ業界も伸び盛りの高度成長期でした。振り返れば、日本経済にとってもマンガ業界にとっても夢のような15年間だったかもしれません。

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2009年1月16日 (金)

「軍師 直江兼続」(坂口安吾ほか・河出文庫)を読む

「天地人」の予習をしていますか?大河ドラマ「天地人」をより楽しむためには直江兼続が生きた時代の歴史的背景を理解しておくことが不可欠です。そこで河出文庫の「軍師 直江兼続」を読むことにしました。「軍師 直江兼続」はいろいろな作家の直江兼続に関する文章を集めたアンソロジーです。

まずは坂口安吾。安吾は「直江山城守」と題する歴史エッセイ(?)で次のように述べています(直江山城守というのはもちろん兼続のことです)。

 秀吉は上杉景勝を会津百二十万石に封じた。家老の直江山城は米沢三十万石の領地をもらった。これは秀吉が特に景勝に命じてさせたという説があるが、確証はない。
 上杉百二十万石は、徳川、毛利につぐものだ。山城はその家老にすぎないが、彼以上の石高をもらった大名はたった十人しかいない。即ち、徳川、毛利、上杉、前田、伊達、宇喜多、島津、佐竹、小早川、鍋島の十家である。次に堀秀治が越後三十万石で、彼と同じ石高。次が加藤清正二十五万石。石田三成も二十万石にすぎない。名実ともに大名以上の家老が現れたのである。

陪臣(家来の家来)にすぎない直江山城守兼続の処遇はまさには破格といえます。秀吉の誘いに乗って直属の家臣になっていたらここまでの厚遇はなかったかもしれません。しかし、秀吉の誘いを断って大正解と考えるのは煩悩の世界を生きている俗人(つまり私)の発想です。結果がどうなろうと兼続には筋を通すことしか念頭になかったようです。もし秀吉に首を刎ねられたとしても「わが人生に悔いなし」だったのでしょう。

義を重んじて物欲にとらわれない兼続のような武将を坂口安吾は「策戦マニヤ」という言葉で表現しています。「義を立てて、一肌脱いで戦うのが好き」で「無邪気で勇敢で俗念のない」のが策戦マニヤの特徴です。今の言葉で言えば戦争オタクですね。兼続の師であった上杉謙信や兼続の弟子であった真田幸村もやはり策戦マニヤでした。

さて、戦国時代の最終的勝者であった徳川家康は直江兼続をどのように見ていたのでしょうか。畑山博は「宿老直江兼続対謀将徳川家康」の中で、徳川家康の兼続に対する心情を次のように描いています。

「戦いが駆け引きであり、それがこうじると謀略→権謀術数となる。勝つためにはそれが必要なのだ。それは分っている。なのに、そのことに長けた相手ではなく、それを侮蔑する相手に出会ったとき、どうしてこうも心が騒ぐのだろう」
 家康は思う。
「痛みというより、どこか郷愁を感じさせてしまうこれは、何なのだろう」
 家康は思うのではないだろうか。戦いに勝ち残ってゆく者には、必ず汚濁の策がつきまとう。ときにはそればかりで生涯を終わる者もある。だが心ある勝者には必ず今言ったような郷愁があるのではないだろうか。

かなり徳川家康に好意的な解釈ですが、これは家康に仮託した畑山博自身の人生観の表明だと思います。いつも悪いことをしている「経済人」にはこういう家康像が受けるのかもしれません。

「軍師 直江兼続」には、このほかにも尾崎士郎、長岡慶之助、南原幹雄、邦光史郎、童門冬二、松下英麿など、直江兼続をテーマとした小説、論文、エッセイなどが集められています。薄い短編集なのですぐ読めるし、有名なエピソードは繰り返し出てくるのでぼんやり読んでいてもけっこう頭に入ります。序文もあとがきもなく、尾崎士郎の文章が3本も収録されていてしかもほとんど内容が同じという「奇書」でもあります。

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2008年12月 8日 (月)

岡野宏文と豊崎由美の対談集「百年の誤読」を読む

面白い本を見つけました。「百年の誤読」(ちくま文庫)です。この本は、20世紀の100年間を10年ごとに区切って、各10年ごとに10冊、計100冊のベストセラー本を岡野宏文と豊崎由美が読んでその感想を率直に語り合うという構成になっています。ひとはそれぞれ感性が違いますから、同じ作品に対して評価が違っていても別に不思議はありません。なぜ評価が食い違うのかを考えながら読むと「百年の誤読」という本は結構奥深いです。それに、文豪と呼ばれているような大家の作品でも、いわゆる文学史的な評価は無視してあくまでも自分の感性による印象を述べているのがいいです。

たとえば、夏目漱石の「それから」の主人公・代助に対して、豊崎由美がこんな感想を述べています。

で、食卓につくと、<熱い紅茶を啜りながら焼麺麭(パン)に牛酪(バタ)を付けている>って、……プーのくせにっ!こういう小説読んで明治時代の庶民は反感覚えなかったんでしょうかね。

いいなあ、この感想。わたしは昭和生まれの庶民ですが、正直言って代助のものの考え方や生活ぶりにはムカッとしました。夏目漱石の小説に出てくる高等遊民のなかでも代助は最低最悪です。社会のダニです。それでいて社会のダニとしての自覚がありません。回し蹴りをくらわせてドブの中に放り込んでやりたくなります。夏目漱石は「虞美人草」の藤尾のような女が大嫌いだったようですが、わたしは「それから」の代助のような男が大嫌いです。「生れてすみませんぐらい言え、バカヤロー」といった感じです。「それから」を読むと太宰治が夏目漱石を徹底的に嫌っていた理由が何となく理解できます。

「百年の誤読」で紹介されているベストセラー作品で実際に読んだことがあるのは3割程度(おもに明治・大正時代の小説)ですが、未読の作品で是非読んでみたくなったのは谷崎潤一郎の「細雪」です。感想を読んだだけでも実に面白そうです(谷崎潤一郎は長生きしてしまったために著作権がまだ残っていて「DS文学全集」には収録されていない)。

「百年の誤読」には異論を唱えたくなる感想も出てきます。でも、個人の印象なんだから仕方ありません。人それぞれです。

岡野宏文は「百年の誤読」の序文で「本の世界には、昭和三十五年に謎がある」として、昭和三十五年を境にして読書傾向がガラッと変わっていることを指摘しています。単純に考えればテレビの影響ということになりますが、徐々にではなくたった一年で劇的に変化しているとなるとテレビの影響というだけでは説明のつかない何かがあるのかもしれません。まあ、岡野宏文の気のせいという可能性もあります。

「百年の誤読」は、第一章が1900年からスタートしているため、実際は101年になっています。誰もミスに気がつかなかったのか、「誤読」にちなんで愛嬌でわざとこうしてあるのかは不明です。

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2007年10月16日 (火)

「戯作三昧」(芥川龍之介・新潮文庫)

日経新聞の「戯作の時代①―南総里見八犬伝」の解説に次のようなくだりがありました。

芥川龍之介は馬琴を主人公とする小説「戯作三昧」の中で登場人物の1人にこう語らせた。馬琴の小説は「四書五経の講釈だけでせう。だから又当世の事は、とんとご存じなしさ」。八犬伝は水滸伝の焼き直し、山東京伝の二番せんじだとも言っている。

これだけを読むと登場人物の言葉を通して芥川龍之介が馬琴を批判しているかのように受け取れます。ちょっと気になったので実際に「戯作三昧」を読んでみました(短編なのですぐ読める)。

芥川の「戯作三昧」は馬琴に自己の心情を仮託していて、馬琴に対しては批判的どころかむしろ共感をもって描いています。読み方によっては、「戯作三昧」の馬琴は芥川龍之介自身であるともいえます。時代背景を大正時代にして、主人公を馬琴ではなく「私」にしたとしてもほとんど違和感がありません。

「戯作の時代」における宝玉正彦氏の引用に間違いはありませんが、誤解を招きやすいです。引用されているのは風呂屋で馬琴がふと耳にしてしまった無知な大衆の戯言です。芥川の「戯作三昧」はこうした世間の無理解に対する反論として書かれています。戯作文学を「過去の遺物」として軽んじるような風潮に創作者の立場から強く異議を唱えたのが「戯作三昧」という小説だと思います。

小説「戯作三昧」の主題を要約すると、

 「創作活動の何たるかも解らずに生意気なことをほざく阿呆もいる」

こんなところだろうと思います。古典・故事に独自の解釈を与えて物語を展開した芥川龍之介の小説手法は戯作文学への先祖がえりのようなところがあります。できれば江戸戯作文学の隠れ礼賛者として紹介して欲しかったです。

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2007年9月 6日 (木)

「断腸亭日乗上・下」(永井荷風・岩波文庫)

昭和13年(1938)の永井荷風。60歳。離婚歴2回。両親すでに無く、兄弟とは絶縁。妻も子どももいない。知人はいても友人はなく、地域社会との交わりを拒絶して偏奇館と称する麻布の家で隠棲生活をおくる。新聞記者の訪問を嫌って記者が来る前に家を出てしまう。電話がかかってきても出ない。隣家のラジオがうるさいといっては家を出て浅草や玉の井界隈を彷徨う。資産家で住む家があったことと文学者であったことを除けばその心情は典型的なホームレスだったと思います。

永井荷風が81歳でその生涯を終えるまで延々と書き継がれた「断腸亭日乗」は実に不思議な本です。東京散策のバイブルとして、風俗世相史の生の記録として、あるいは創作活動の背景を知る資料として、自分の関心に引き寄せていろいろな読み方が出来ます。

でも、「断腸亭日乗」が本当に凄いのは、孤独と引き換えに徹底した個人主義を貫いた魂の記録になっていることです。人間はひとりでは生きられないとはよくいわれることです。しかし、それでもむりやりひとりで生きようとしたとき、癒されることのない心の空洞をどのように満たせばよいのでしょうか。晩年の執念にも似た浅草通いは永井荷風の寂しい日常と無関係ではありません。永井荷風にとっての浅草は、最後に残された唯一の心のオアシスだったのだと思います。

厚生労働省の推計によると、住む家がなく主にインターネットカフェで寝泊まりしているいわゆる「ネットカフェ難民」が全国で約5400人に上るそうです。この「ネットカフェ難民」はいわば強制的に孤立と個人主義を強いられているわけですが、夢も希望もなく絶望することさえ諦めてしまった人には永井荷風の「断腸亭日乗」がおススメです。人間嫌いの文学者が生涯をかけて到達した境地にすでに自分が到達していることに気がつくかもしれません。

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2007年7月16日 (月)

「反転 闇社会の守護神と呼ばれて」(田中森一・幻冬舎)

ライブドア事件の副読本のような本です。

東京地検特捜部の鬼検事から闇社会の守護神(弁護士)に転向、やがて古巣の特捜部に詐欺容疑で逮捕されて実刑の判決を受けるまでの自叙伝です(現在最高裁に上告中)。カネに目がくらんで舞い上がってしまった日々の回想は面白いことは面白いですが文学的香りはゼロです。

世の中の「勝ち組」には、表社会の勝ち組と裏社会の勝ち組がありますが、あるレベルを超えてくると表社会と裏社会が同じ勝ち組ということで微妙に重なってくるようです。何が表で何か裏なのかわからなくなってくるような奇怪な世界です。表だ裏だといってもコースが違うだけでたどり着く場所は同じなのかもしれません。まあ、一般庶民には関係ないし、あまり近づきたくない世界ですね。

著者の体験からすると、検察組織のデタラメぶりに比べれば義理も人情もある裏社会のほうがマシだということになるのかもしれません。ただ、読後感は後味が悪かったです。個々のエピソードは面白くても、この著者の人生観はどこか潤いが欠けています。

人間は、嘘がバレない限り、嘘をついているほうが嘘の分だけよく見えるものです。気前のいい接待や気配りや人心掌握術に感服させられたら、まず100%騙されていると思ったほうがいいです。

検察組織やヤクザ組織に限らず階層秩序が支配している世界というのは息苦しいものです(上に甘く、下に厳しい世界)。異物を排除して日本の国全体を階層秩序で覆い尽くせば、それが「美しい国」ということになるのかもしれません。でも、そういう「美しい国」は国民全体にとっては不幸な国です。できれば遠慮したいですね。

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2007年6月11日 (月)

「フェルマーの最終定理」(サイモン・シン 新潮文庫)

この本はフェルマーの最終定理を証明しようとした数学者たちの悪戦苦闘を描いたノンフィクションです。「証明」をめぐる犯人を追い詰めていくようなスリルとサスペンスは推理小説顔負けの面白さです。読み物としての面白さもさることながら、難解な数学の世界を一般の読者にも理解できるように(≒理解できたと思えるように)平易に解説してくれるサイモン・シンの手腕はまさに神業です。

一般の人とは「脳味噌の配線」が違う数学者の世界と日ごろ数学に興味があるわけではない一般の読者の間をこれほど巧みに橋渡ししてくれている本はこれまで読んだことがありません。まさに「難解なことは何一つ出てこないにもかわらず、ワイルズ(最終定理を証明した数学者)が何をやろうとし、どういう道筋をたどったかが鮮やか見えるようになって」います。読んでいるとなんだか自分も頭がよくなったような気分になれます。数学オンチでも中学生の2次方程式が解ける程度の知識があれば大丈夫です。とにかく面白いです。

たとえば、人間の直観があてにならない例として、この本に次のような問題が出てきます。

問題:競技場に選手と審判の合わせて23人の人間がいました。この23人のうち、誕生日が同じ人がいる確率はいくらになるでしょうか?

1.約 5%
2.約10%
3.約50%
4.約90%

問題を少しアレンジしてしまいましたが、正解は3の約50%です。「そんなバカな!?」と思う人はこの本を読んでみるといいです。「博士の愛した数式」(小川洋子・新潮文庫)の副読本だそうです。

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2007年5月14日 (月)

「昭和33年」(布施克彦・ちくま新書)

この本の主張を乱暴に要約すると、

政治の泥仕合は今に始まったことではないし、昔の下流社会(バタヤ部落)を考えれば今の「格差社会」なんてへそが茶をわかす。昔を美化するのもいい加減にしませんか?

こんなところだと思います。

たとえば、教育の荒廃といった問題について、布施克彦は自らの体験を次のように述べています。

当時の教師がみんなしっかりしていたというのは嘘だ。わたしの記憶でも、ダメな教師、ヘンな教師はかなりいた。みんなでからかったら、立ち往生してしまう教師がいた。生徒が教師の話を聞かず、事実上崩壊している授業もあった。生徒を置き去りにして、先生同士が駆け落ちする事件も起きた。

えこひいきの激しい担任教師のクラスで、えこひいきされない生徒は惨めだった。ガキ大将の命令は絶対で、サダム・フセイン圧政下のイラク状態の弱い子供たちは、常にビクビク、オドオドしていた。下校途中の街角には、頭のおかしいオヤジとか、他校のいじめっこ上級生が待ち伏せしていた。

「あのころの子供たちは今より幸せだったか」という問題に、この著者は遠慮がちに「簡単に答えは出ない」としています。しかし、昔と今とどちらがいいかを直接子供たちに選ばせれば今がいいというに決まっています。タイムマシーンで昭和33年の子どもが現代にやってきたとしたら、「夢のようだ」と泣いて喜ぶのではないでしょうか。

この本に掲載されている「一般刑法犯罪発生件数」や「道路交通事故死亡者数」の比較表を眺めるだけでも、「昔はよかった症候群」や「未来心配性」は相当眉唾であることがわかります。

一般刑法犯罪発生件数
                        昭和33年    平成16年
件数(単位:千件)              1513        380
人口10万人当り                16.4        3

道路交通事故死亡者数
                        昭和33年    平成16年
死亡者数                    8248       7358
自動車一万台当り               35.4        0.8
人口10万人当り                  9          5.8

注)「交通事故死亡者数の減少は医療技術の進歩による」という説もある。

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2007年5月 1日 (火)

「昭和史の教訓」(保坂正康・朝日新書)

昭和10年代の歴史の実相を学ぶことを啓蒙した本です。この本の中で、保坂正康は昭和10年代を「四つの枠組みで囲い込まれた時代」と規定しています。その四つというのは次の通りです。

1.国定教科書による国家統制 → 国家意思による教育空間の占拠
2.情報発信の一元化 → 言論の封殺
3.暴力装置の発動 → 自主規制の強要
4.弾圧立法の徹底化 → 治安維持法の拡大解釈

昭和10年代というのは、共産主義者に限らず自由主義者だろうとクリスチャンだろうと、国策(つまり戦争)に反対したり、軍部を批判したりする者は、「非国民」として徹底的に排除、弾圧する時代だったようです。

今の日本には治安維持法はないし、原則として拷問もありません。しかし、「情報発信の一元化」ということでは、当局がやってること(またはやりたいと思っていること)は今も昔もほとんどかわらないのではないかと思います。この「情報発信の一元化」について、保坂正康は次のように述べています。

私はこの時代に「表現の自由」がなかったと分析するだけでは誤りだと思っている。それよりも情報の発信が一元化され、ジャーナリストが自由に取材を行えないというところに問題があると思う。現実には、情報局が情報の発信を一元化していき、それがそのまま記事にされているかどうかを、内務省の検閲課が検閲するという状態がつづいていくことになった。
 昭和十年代の言論は、政府の国民への示達という枠内で許容されていたのであり、政府の宣伝要員といった役割を果たしていたと断言していい。

あの太平洋戦争について、「マスコミも戦争を煽った」とか、「国民も戦争に賛成していた」などという論調をよくみかけますが、当り前ですね。賛成以外の選択肢は当局によって許されなかったのですから。

蛇足になりますが、このまじめな本を読んでいて不謹慎ながら笑ってしまったのは、「生死を恐れるな、生きて虜囚の辱めを受けず」と教えた「戦陣訓」についてです。「献身奉公の精神」を強調して、「生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし」などと末端の兵士には言いたい放題のことを言っておいて、「指導部にいた軍人たちのなかには虜囚の辱めを受けるどころか、敗戦後はGHQにすり寄り、その戦史部に身を置き、食うや食わずにいる日本人の生活のなかで並外れた優雅な生活をすごした中堅幕僚たちもいた」そうです。

正直者は馬鹿をみる・・・そんなもんだよ人生は。 ← これ、庶民の生活思想です。

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